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大河原孝夫 × 手塚昌明 トークショー レポート・『誘拐』(2)

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【『誘拐』の俳優陣】

 『誘拐』(1997)では渡哲也は30キロ以上の身代金を担ぎ、永瀬正敏は自転車でそれを運ぶ。画面を見ていていかにも苦しそうである。

 

手塚「永瀬さんは自転車に乗って、筋肉痛で痙攣して倒れた」

大河原「(永瀬さんの)乱闘のシーンが、そのせいで(一旦)中止になりました。本人はやりますと言ってたけど」

手塚「その乱闘シーンも許可なしで新宿で撮りました。あらかじめリハーサルしてたら、テキ屋の兄ちゃんが止めに来て「違うんです、撮影なんです」って(笑)」

大河原「渡さんと初めて会ったとき、台本に10カ所くらい相談があった。細かいところです。あとは一切なし。永瀬さんのほうが細かく訊いてくる」

 永瀬正敏の少年時代を伊藤淳史が演じている。

 

手塚「「きみ、ちびノリダーだったの?」って言ってたけど、まさかこんなに有名になるとは」

 

 重要な役のひとりの酒井美紀だが、この人の大阪弁が少々不自然である。

 

大河原「方言指導が酒井さんに付いてたんだけど、熊井啓さんの作品(『愛する』〈1997〉)とクロスオーバー的なスケジュールになってて、きつかった。最初は全然ダメだったけど、二度目はよくなりました」

手塚「方言指導の人は10年20年のベテランの人がやるから、その間に地元の方言が変わっちゃいますね」

 

 受け渡しのシーンが派手な前半に比べて謎解きメインの後半がウェットでいまひとつとの声は、公開当時からあったようである。

 

手塚「木村(木村大作)さんは「後半にもうひとつ見せ場を」と。(物足りないという人は)前半を見て、後半もやってくれると思ったんじゃないか。いまここにいるお客さんは22、3歳のガキじゃないから、カーチェイスとかそういうふうにならなくても(笑)」

大河原「興行的にもうちょっとよければこういうシナリオ本位の作品の流れが生まれたんだろうけど、ベストセラーの原作に頼ったりしてしまう。『誘拐』『絆』を最後に(東宝の自社制作は終わり)あとは制作委員会方式ですね」

誘拐

誘拐

  • 渡哲也
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【回想の助監督時代 大河原孝夫編】

大河原「学生時代に、日大に森田芳光ってのがいるよとか聞いてました。

 当時は撮影所を合理化しようという流れだった。(新人は)なかなか撮影所に回してもらえなくて、後輩は撮影所希望と言って落ちた。ぼくと三好邦夫はシナリオやシノプシスを出してたんですが、藤本(藤本真澄)さんがそんなに言うなら行かしてやるよと」 

 

 そして助監督として『日本沈没』(1973)に参加した。このときが『誘拐』でも組む木村カメラマンとの出逢いであったようである。

 

大河原「(助監督は)全部で8人でした。資料専門の人とか。そのときはカチンコなんて、打ち方も判らない(笑)

  2本目は『野獣死すべし 復讐のメカニック』(1973)。(『日本沈没』につづいて)また藤岡(藤岡弘、)か…(一同笑)。3本目は『ノストラダムスの大予言』(1974)。こんなのやるのかって(笑)」 

 

 木村カメラマンの存在は監督の言動にも大きく影響していたらしい。

 

大河原「降旗(降旗康男)監督なんかは(木村さんがいると)何も言わなかった。カメラがうるさいから、大人しい。カメラが木村さんでないときはガンガン言ってたらしい。監督とカメラさんにガンガン言われちゃかなわないから」

 

 黒澤明監督の時代劇『影武者』(1980)にも参加。

 

大河原「『影武者』は黒澤映画を見て育った世代だからやりたいと希望した。出演者は黒澤さんが面接して、自分も全部つきあいました」

 

 この作品は主演の勝新太郎と黒澤監督とが撮影中に衝突。代役に仲代達矢が起用されるという経緯があった。

 

大河原「勝さんが(自分の演技を)マネージャーに撮影させたいと言ったら(黒澤さんは)監督はおれだと。(スクリプターの)野上照代さんが慌てて間に入って「きょうは帰ってもらいましょう」と。黒澤さんは、勝さんがビデオを見てこうしたらいいとか思うのがまずい、演技の指導はおれがやると。

 それで代役は誰にするかで野上さんが動いた。切り替えは速かったです」 (つづく