私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(4)

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 仕事を干されているあいだ、子供の学費が出せなくなって、印刷工場の夜勤をやったこともありました。大きな紙をそろえるのもうまくなったんですが、その現場の主任をやってくれと言われてやめました。それとTBSのラジオの構成台本も4年か5年やりました。最初は『チャターボックスS』っていう黒柳徹子がダジャレを次々飛ばしていく番組で、ダジャレが思いつかなくて苦労しました。総理府が提供した『クローズアップにっぽん』というのもやりました。

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佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(3)

 助監督時代

 そうやって入った撮影現場はひどい労働条件でした。月に200時間の残業もザラでした。労働組合はあったのですが、御用組合でした。東急で労務担当をやっていた大川博が社長で、組合対策をどんどんやります。「公的機関の調停を経ずに争議行為はやらない」という平和協定を結んでいたので、何もできませんでした。そして組合執行部をやったヤツがみんな労務担当になりました。それが変わったのは臨時者の組合員化からです。

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佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(2)

 「就労排除」対「自主制作」

 そうこうするうちに、東京撮影所にテレビ映画とCMをつくる制作所という部署ができて、東映労組の活動家全員がそこに配転されました。間もなくそこは別会社になります。組合活動家でもなかった僕もそこに入れられて、そこからさらに目黒のPR分室という、室長を入れてもたった7人の部署に追いやられました。出勤しなければならないけど、仕事は一切ないという状態に置かれたんです。組合も黙っていたわけじゃありません。時限ストライキ、抗議集会、デモ、いろんな抗議活動を続け、何年かそんな状態が続きます。

 そのうち、新労連のなかで組合民主化の運動が起り、新旧労組が共闘するようになります。1970年の暮になってやっと労使の合意が成立して、解雇された支部委員長が復職、僕も東映の仕事ができるようになりました。

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佐伯孚治 インタビュー “わが映画人生と組合体験” (2010)(1)

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 テレビ『帰ってきたウルトラマン』(1971)や『ペットントン』(1983)、『どきんちょ!ネムリン』(1984)、『おもいっきり探偵団覇悪怒組』(1987)、『美少女仮面ポワトリン』(1990)など幾多の特撮ドラマを撮った名匠・佐伯孚治監督(2018年逝去)。デビュー作の映画『どろ犬』(1964)が2019年にリバイバル上映されて、静かな注目を集めた。

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「怪獣使いと少年」についての二、三の事柄・橋本洋二と東條昭平 (2)

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ウルトラマンではチャランポランはできない。後に東映の戦隊ヒーローを監督しましたが、あっちの方はもっとコミックにしたり、崩していい世界なんですね。ウルトラマンは、やはり他のヒーローに比べれば一段も二段も上の存在ですね、僕にとって」(『怪獣使いと少年』〈洋泉社〉)  

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