【実相寺監督の人間像 (2)】
中堀「(作中では)いちばん大事なことは語らなかったですよね」
清水「おれも台詞の意味が判らなくてもいいと思ってやってた。実相寺はもうちょっと衒いじゃなく、ヴィスコンティみたいにきちっと人間はこうだって撮ってくれれば嬉しかったなと」
中堀「そういうのが厭だったんでしょうね」
清水「そこから逃れようとしたんだろうね」
中堀「ロカルノで賞とったときも興味なくて。もらったライオンのしっぽがとれちゃったんだけど「そんなもん、包帯まいてくっつけとけ」」
清水「かっこいいところだね」
『怪奇大作戦』(1968)の「呪いの壺」や「京都買います」、映画『無常』(1970)などを撮った京都には愛着があった。
中堀「京都タワーなんていけないって、和田勉さんといっしょに戦ったんですね。大学のフランス人の先生がトップに立って、文書にまとめて戦ったけど、結局タワーは立っちゃった」
中堀「ヒースロー空港で午前4時ごろ着いて。監督の靴は10分の8なくなってて傾いてる(一同笑)。ズボンはよれよれ。帰ってこないから心配になって行ったら、廊下の奥でつかまってて。便所掃除の人と同じような格好だったから、掃除の交代の人が来たと思われて(一同笑)。監督はおろおろ。
撮影が終わって、みんなはカメラとか持ってるけど、監督は軽いの持ってきたない格好だから守衛に「おじさん! そこ業者ダメ」って(一同笑)。電通で風呂敷包み持っていったら、裏に回れって言われて」
クマのぬいぐるみの「ちな坊」を息子と称してかわいがっていた。
中堀「正月に監督のうちに行って、ちな坊にお年玉あげる。あげるたってぬいぐるみだから、監督が使うんですよ。そのお年玉を貯めて、元町にある岸惠子さんも行ってる洋服屋で20万も出してちな坊の服をつくるんですよ(一同笑)」
清水「あれも何がちな坊だ、バカ野郎(一同笑)」
中堀「何十年もつき合ってたわけだけど、ある時期から悩み出したというのを感じたことがあるんですよ。
おれはちな坊にはあげなかったんだけど。それで正月に酔っ払ったときに何か書いてくださいって言って。岐阜の和紙があったんですよ。いい紙に書いてくれて。丸めて家に持って帰って、ほったらかしてたけど、3年くらい経って暇なときに開いたんですよ。監督は「万葉集」も暗記してて、しょっちゅう歌を小さな紙に書いてたんですが、その紙には「歌詠みを 羨ましきと 野を駆ける 歌詠めぬ身の 冬の汗かな」と書いてあったんですよ。この人ほんとに悩んでんだよな。歌詠みを目指して走ってるけど、つくれない。監督は阿部昭さんも同期だし、小説家を目指してたところもあったけど、久世(久世光彦)さんは小説家として賞取っちゃって、久世さんにも抜かれ。監督は余計なことやりすぎてたんですよ。もっと映画だけとか」
清水「才に溺れたって言い方したら失礼だけど」
中堀「TBS入る前に外交官試験受かるってこと自体おかしい。1年間研修に行ったら、厭なところばっかり見ちゃって辞める」
清水「いまいたらね。おい、降りてこい(笑)。こんなふうに喋れる人っていないですよ。黒澤(黒澤明)さんについては喋れないわな」
【その他の発言】
清水氏は黒澤監督の『影武者』(1980)にも出演している。
清水「黒澤先生も先生先生ってみんな言い過ぎだろうと言いつつ、ぼくも黒澤組にいたんだけど(笑)。優しいんですよ。文章を書いて提出したら「こんなの書いたの」って。「いい映画撮りたいんだよ、ぼくは」って優しい。本番になったら「違う!!!」。映画ってのは頭おかしくないと撮れない(一同笑)。実相寺もそうでしょう。ぼくとはやったことないけど小津(小津安二郎)さんも、したたかなきちがい。
黒澤組はいいもの食わせてくれるんだよな(一同笑)。『影武者』では「きょうは猪鍋」。次の日は「きょうはなんとか鍋」。もう、きょうはそばでいいよ(笑)。黒澤監督は「そうだねえ、みんなよくやったねえ」って。黒澤先生がいなくなると、仲代(仲代達矢)さんが座って「ああ、気使ってくれてありがとう。らくにして」(笑)。あのヒエラルキーは崩れない。面白い体験をしました。
ぼくは狂気性には自信があったからね(一同笑)。でもそれで仕事が全然来なくなって。変わった役しかこねえなあ。普通の刑事役なら12回のレギュラーができるけど、犯人だと1回しかできない。特におれ、目立つから(一同笑)。実相寺が、いや実相寺さんが使ってくれて(笑)愉しかったね。普通のおじさんやお父さん役はできない。
若いときはまだおれのこと判ってくれる人がまだいるだろうと思うけど、やがてほとんどいねえやとなるからね。いまはべらべら喋ってるけど、よその現場行ったら何にも喋らないからね(一同笑)」