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大河原孝夫 × 手塚昌明 トークショー レポート・『超少女REIKO』『復活の日』(3)

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【回想の助監督時代 大河原孝夫編 (2)】

 長い助監督生活を経て、1991年にサイキックホラー『超少女REIKO』の脚本・監督を担当した。

 

大河原「黒澤(黒澤明)さんの自伝とか読むと、助監督はホン書くものだと。なかなか書けるものではないけど、そう簡単に監督になれそうもないから。40過ぎたら(監督)やらせてやるというのは昔の話。そこで何か形として、自分に付加価値をと。外の評価があれば見直すかなって」

 

 そこで大河原監督は日本映画製作者連盟が運営するシナリオ新人賞・城戸賞に『REIKO』のシナリオを投稿し、準入選。4年後に観月ありさ主演で映画化にこぎつける。

 

大河原「黒澤さんも好きだけど『エクソシスト』(1973)とかも嫌いじゃなかった。

 監督デビュー作の予算はせいぜい2億。だから『ヘルハウス』(1974)みたいにひとつの舞台にしようとバジェットを考えて、それで学園ものに。主演に観月(観月ありさ)くんが決まるまで2年くらいかかりました。特撮は浅田(浅田英一)さんについてもらって」

 

 助監督は手塚監督が務めた。

 

手塚「粉の上に足跡がつくシーンとか、浅田さんとモーションコントロールカメラでコマ撮りしました。毎日、仕掛けがいっぱい(笑)」

大河原「普通なら特撮班を(別途に)組むんだけど、バジェットがないんで」

【回想の助監督時代 手塚昌明 (1)

 東宝の社員助監督を長らく務めた大河原監督と異なり、手塚監督はフリーの助監督だった。当初はにっかつの助監督で、流れで東宝の仕事が回ってくるようになった。

 

手塚1977年に土曜ワイド(劇場)が始まって、三本目に山口百恵の『野菊の墓』(1977)についた。百恵の映画『霧の旗』(1977)と同じ(西河克己)監督で。山口百恵つながりで映画『古都』について(『古都』の監督だった)市川崑つながりで東宝へ来ました。百恵の作品はにっかつだったから、東宝の食堂はにっかつと違うなあって(笑)。

 東宝へ行ったら『惑星大戦争』(1977)が当たったって言ってたけど、当たったのは(併映の)『霧の旗』だよ(笑)。当時は、盆暮れは百恵で、併映は適当(笑)」

 大河原「『惑星』は応援で参加しただけなので詳しく知らないけど、福田純監督がタイトルで星が流れるようにできないかと。できなかったんだけど(流星のようにスライドインする)クレジットが特徴的なのはその名残りですね」

 小松左京原作 × 深作欣二監督によるSF大作『復活の日』(1980)にも参加。この映画は裏側にいろいろとエピソードがあり、『映画監督 深作欣二』(ワイズ出版)などを読むと映画そのものよりよほど面白いくらいである。

 

手塚「『復活の日』では南極へ半年か一年ロケに行ったんですけど、ぼくは置いていかれてました(笑)。(アメリカ大統領役の)グレン・フォードのシーンも海外で撮ってましたね」

 

 撮影は『誘拐』(1997)の木村大作カメラマンであった。

 

手塚「多岐川裕美がいるのにその前で下ねた言うスタッフもいて、下品な雰囲気でしたよ(笑)。

 緒形拳さんが亡くなるシーンで、木村さんが「バカっ」って怒鳴りまくって怖い。深作さんは何も言わない。監督とカメラマンが合わないから、厭な現場(笑)。南極でも喧嘩したらしいけど、撮り残しを大雪山で撮ってたら、ふたりの言うことが違う。その後、深作さんと木村さんはぐちゃぐちゃで仲違い。でも後で奥さん同士が仲良くなって、それでふたりを仲直りさせちゃった(笑)」

 

 ラストシーンは、ぼろぼろになった主人公の草刈正雄が湖のほとりでオリビア・ハッセーたちと偶然(?)再会するというもの。 

 

手塚「ラストシーンは本栖湖です。(ヒロイン役の)オリビア・ハッセーを日本へ呼んで。これがジュリエットか、とか思いながら(笑)」(つづく