2014-01-01から1年間の記事一覧
先日、東日本大震災をセミ・ドキュメンタリーふうに扱った『遺体 明日への十日間』(2013)と漫画家の故・赤塚不二夫を描いた『これでいいのだ!!』(2011)という2本の映画を見ていて、力の入った前者に感心しつつも、後者の出来のひどさ(さしづめ『デビ…
先日、東日本大震災を描いた映画『遺体 明日への十日間』(2013)を見ていて、それなりに力作なので感心した。脚本・監督は君塚良一で、彼はこの10年くらいの打率の低さにより最近はすっかり映画ファンの反感を買ってしまったが、この『遺体』はもう少し評価…
昨2013年、脚本家の山田太一のインタビューにおける木村拓哉についてのコメントがちょっと話題を集めた。 山田は、木村が壁にぶつかっているように思われるとしてこう評する。
【『ゴジラ』(2) 】 中野「(この時期には)東宝ゴジラ団とかファンのグループもあって、同人誌とかね。 最初の準備稿ではラストシーンだけない。スタッフにまでラストを隠してどうするんだよって。スタッフにIDカードを配って前から下げろとか。撮影が始ま…
今年、アメリカ映画『GODZILLA ゴジラ』(2014)が公開され、日本でもゴジラシリーズの再開が決まった。ゴジラ映画は第1作『ゴジラ』(1954)以来、断続的にシリーズが製作されており、何度か空白の期間があった。『メカゴジラの逆襲』(1975)から仕切り直…
今年喜寿を迎えた伊東四朗主演( “伊東四朗生誕?77周年記念” と銘打たれている)の舞台『吉良ですが、なにか?』(2014)が、討ち入りの12月14日に千秋楽を迎えた。脚本は三谷幸喜で、伊東四朗とのコンビによる舞台は、『その場しのぎの男たち』(1992)か…
1974年に刊行された、『ビビを見た!』(理論社)。 全盲の少年の目が見えるようになった。そのとき周囲の人びとは失明し、街に巨大な敵が襲来する。パニックのさなか、少年が列車で出会った謎の少女。そして…。 『ビビを見た!』は、読んだ子どもたちに忘れ…
本で失踪の話はしましたっけ? 音楽は千住明さん。いまではベテランですけど、当時はまだ学生みたいな若手でしたね。音楽をつけるポストプロダクションに(五社英雄)監督が体調不良でいらっしゃらない。そのうち西岡(西岡善信)さんのところへ手紙が来て「…
フジテレビ出身で、テレビの演出家から映画監督に転身した草分けとして知られる五社英雄監督。五社監督は『鬼龍院花子の生涯』(1982)や『極道の妻たち』(1986)、『吉原炎上』(1987)などの娯楽作で知られ、1992年に逝去した。
映画『妹』(1974)や『スローなブギにしてくれ』(1981)などの脚本、小説、劇作など多彩な分野に才能を発揮した内田栄一が、還暦にして初監督した映画『きらい・じゃないよ』(1991)。監督・脚本の内田は1994年に逝去。今年9月に主演の伊藤猛も世を去った…
【藤子不二雄A先生について】
11月、阿佐ヶ谷にて漫画家のえびはら武司先生を中心にしたトークイベントが開催された。えびはら、のむらしんぼ両先生が故藤子・F・不二雄を語るというイベントが今年4月にあり、今回はその第2弾という位置づけである。 参加者は他に漫画家の三浦みつる、浜…
【ゴールデン洋画劇場】 フジテレビの映画放送枠「ゴールデン洋画劇場」のオープニングアニメは、広く知られている。1981〜1995年までの初代と1997〜2001年の2代目がある。
【『恋の大冒険』】 日本では珍しいミュージカル映画『恋の大冒険』(1970)では、和田氏がタイトルデザインや劇中アニメーションを担当している。
イラスト・装丁・エッセイ・作曲・映画監督などマルチな分野に才能を発揮する和田誠。和田氏はテレビ・映画などのアニメーションの仕事も多く、その作品の数々が11月、駿河台にて上映されて和田氏のトークが行われた。聞き手は濱田高志氏(以下のレポはメモ…
1995年、岩井俊二監督(フジテレビ製作)の『Love Letter』が、当時の日本映画にしては例外的に若い観客の支持を集めている。幼いころの筆者がビデオレンタル店へ行ってもほとんど貸出中でなかなか見られず、当時の人気ぶりが伺えた(同時に季刊誌「映画芸術…
幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました…と昔の詩(中原中也「サーカス」)に描かれているようにさまざまな時代があったわけだが、歳をとると過去といまとの落差に驚くことがある。もちろん戦中戦後などに比べればさしたる変化でもないけれども1990年代…
安孫子 あのドラえもんの喋り方になるまで、研究もされたんですか。
安孫子 大山さんは、最初はいつ彼と会ったんですか。
以下に引用するのは『ドラえもん』(小学館)などで知られる藤子・F・不二雄(藤本弘)先生が1996年に逝去された際に月刊誌「婦人公論」にて行われた鼎談で藤子不二雄A、大山のぶ代、石ノ森章太郎の三氏が参加しておられる(字数の関係上全文ではない)。
【撮影現場のエピソード (2)】 成田「事務所は全編裸だと思った。だから男子禁制というか女性スタッフを多くしてぼくも現場には入れない。安藤、現場はどうだった?」
1978年に刊行された中沢けい『海を感じる時』(講談社文芸文庫)は60万部のベストセラーになった。当時から映画化の企画が進み、依頼を受けた脚本家の荒井晴彦は他の中沢作品を織り交ぜて脚色。だが結局、中沢は映画化を許諾しなかった。荒井は「女の原作者…
10月に、脚本家の山田太一先生と写真家の鬼海弘雄氏のトークショーが行われた。 鬼海弘雄氏はインドなど海外でも撮られているそうだが、浅草で見つけたさまざまな人物を、壁をバックに40年に渡って撮っている連作がある。そのシリーズが今年、『世間のひと』…
【市川森一の人間像 (2)】 真船「プロテスタントはどっかの教会の教会員になる。市川さんは、麻布にあるぼくと同じ教会に移ってこられて。長崎の新聞に、天草四郎が徳川幕府に反逆したという小説を書いていらして(『幻日』〈講談社〉)それが終わったら教会…
【「悪魔と天使の間に…」(2)】 切通「『帰ってきたウルトラマン』(1971)は恐竜型(の怪獣)が多くて、でも途中で市川さんの脚本ですけど宇宙怪獣が出てきた(第18話「ウルトラセブン参上!」)。そして当時幼年誌に今度は宇宙人が出てくると。でも(第31話…
テレビ『淋しいのはお前だけじゃない』(1982)など多数の作品を遺して2011年に逝去した脚本家・市川森一。若き日の市川は『ウルトラセブン』(1967)や『帰ってきたウルトラマン』(1971)などウルトラシリーズのシナリオも執筆しており、『ウルトラマンエ…
1996年9月23日に漫画家の藤子・F・不二雄(藤本弘)先生が逝去した直後の、藤子不二雄A先生のインタビューを以下に引用したい(藤子A先生の発言に絞って引用)。 藤子A先生の自伝的な『まんが道』(小学館)を読むと、10代で富山から上京したころに藤子・F…
(承前)僕らが連載を始めるときは、きちんと設計図を描くのではなく、いつもジャズの即興演奏のようなものでした。『ドラえもん』の場合も、一か月前に雑誌に出した連載開始の予告は、机の引き出しが開いていて、「来月、おもしろいものが飛び出すよ」とい…
9月23日は、藤子・F・不二雄(藤本弘)先生のご命日である。亡くなられてから18年の歳月が流れた。以下に引用するのは、藤子・F先生の逝去直後の相棒・藤子不二雄A先生のインタビューである(藤子A先生の発言に絞って引用)。 A先生の『まんが道』(中公文…
『ポルターガイスト』(1982)におけるテレビは災厄をもたらす疫病神であり、ラストでは棄てられる。だがその一方でテレビの世界と交信し合う次女(ヘザー・オルーク)の恍惚とした表情などを見るに、作り手がテレビを憎んでいるわけではなく不可思議な世界…