【作品について (2)】
山﨑「この作品(『ラ・カチャダ』〈2019〉)の前に劇団はひとつ舞台をやってたみたいです。その次に母親がテーマでもっと長い作品をやろうということで動き出した。既に少し始まっていたところに監督が参加して(ドキュメンタリー制作が始まった)。MeToo運動などが世界中に広がる少し前でした。
この後に劇団として南米などに公演に行っているようです。また新しい舞台をつくったかは判らないんですが」
風吹「脚本家が書けないような台詞もあります。台本に書いてあるより立派な発言が出てきますね。演出家がこのまま進めていいのかと悩んでますね。日本人は思っていることを言葉にするのが下手じゃないですか。こんなにすごいのはラテン系だからなのかな(笑)。
私の場合は(演じることが)職業ですので、いろんな現場に行くことが私にとってセラピーになっていますね。技術的な成長はあるんですよ。ただ自分を超えたっていう脚本に出会ったことはほぼないです。脚本家が育ってほしいっていうのは思うんですよ。台詞もこれはいいっていうのはあまりないんですけど。台本に「涙」って書いてあると「何だ!?」って思う。表現としてどうなのかっていつも疑問なんですけど」
【若き日の想い出】
風吹「自分の話になっちゃいますけど(笑)両親が子育てを放棄して私、中学校に保護者なしで通ってました。自炊したり知らない土地で暮らしたり。京都の九条山で、追いやられた人が暮らしてると思うほどでお父さんから逃げてきた女の子とか。体が不自由な人を見かけたり。私自身も大家さんの長男に「お前は絶対男に殺されるぞ」って(笑)。私は、そうは思いませんでしたが、言われてもしかしたらそうなのかしらって思い込む子もいたかもしれません。時代っていうか、男性がそういうことを言葉にしていいんですかって。この作品の映像を見て、昔出会った人たちのことをふわっと思い出しましたね。
中学生の夏休みの縫製工場でバイトしてたんですね。裁断する人や縫う人がいて、私は縫い目を開くバイトをしてた。ひと夏バイトしてると朝からその人たちといて、女子が集まると愚痴大会みたいな。ああ、こういう世界に入りたくないな。私は出よう出ようと思ったんですが、ずっとそこにとどまって年老いていった人もいたかもしれません。
私は根が明るかったのか友だちがいっぱいできて、スポーツカーに乗った女性が私に道を訊いてきてそのまま友達になっちゃうとか(笑)。電車で会った娘と公園に行っていっしょにスケッチしたり。みんなお嬢さんでしたけど。ルーツは違って、私は何とか違う出会いをしたいと思ってました。何もできない中学生でしたけど。
私が運が良かったのは『寺内貫太郎一家』(1975)という現場に呼ばれたこと。ドラマのドの字も判らない、見たこともなかったときです。個性の強い向田(向田邦子)さんや久世(久世光彦)さんと、独特の雰囲気をまとった場所にいたわけですけど。マネージャーが台本で(自分の)台詞にマーカーを引いてくれていて、私は他のところはどうでもよくて気にしてなかったんですけど、樹木希林さんに「相手の台詞も覚えなさい」って言われて。キャッチボールですものね。希林さんは現実を言葉にできる方。「区役所に自分で行ってる?」って。マネージャーはそういうのをブロックしちゃうんですけど、希林さんに自分で運転して現場に行くとかそういうライフスタイルも含めて勉強させていただいた。加藤治子さんは優しい方で、その後も私の仕事を見に来ていただいて「こうしたら?」みたいにアドバイスしてくださいましたね。
反面教師の話で申し訳ないけど、うちの場合は母がしくじってますので。子どもは言葉にしないけど、いろんなことを思う。子役さんに私は子どもとして接しているつもりはなくて、扱いが難しいと思って接しています。私は子どもだったときに大人を批判する眼がありましたので、子どもたちに隙を見せちゃいけないと思っています。わが子でも自分が育てられているというのがあって、子どもたちにいまだに感謝しているんですけど。いま孫も4人おります」