フジテレビ出身で、テレビの演出家から映画監督に転身した草分けとして知られる五社英雄監督。五社監督は『鬼龍院花子の生涯』(1982)や『極道の妻たち』(1986)、『吉原炎上』(1987)などの娯楽作で知られ、1992年に逝去した。
今年、春日太一『五社英雄 極彩色のエンターテイナー』(河出書房新社)が刊行され、それを記念してこの12月に池袋にて “五社英雄映画祭” が開催された。最終日には五社監督の晩年の3本(『226』〈1989〉、『陽炎』〈1991〉、『女殺油地獄』〈1992〉)を松竹でプロデュースした奥山和由氏のトークショーが行われている。聞き手は春日太一氏(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りなので、実際の発言と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
初めてお会いしたのは美術の西岡善信さんにご紹介いただいてです。勝新太郎さんの “座頭市” を五社さんの監督でやらないかと。松竹の前にカレー屋さんがあって、そこで会ったら、勝さんが「カレーならカツカレーだ」(笑)。五社さんは江戸っ子だからカレーを混ぜたら、勝さんがそれはダメだって。そしたら、カレーのことでガタガタ言われたくないって五社さんはえらく怒って、喧嘩に。それで五社監督は京都に帰るんだけど、年端もいかない私に「ごめんな、次に企画があったら必ずやるから」って。
こちらはプロデューサーですから、企画は常に10〜20ありますから。それから1、2週間して、私は萩原健一で “用心棒” をやろうって。いくつか棄て玉の企画を用意して、最後に “用心棒” を置いて。最初が(二・二六事件の)『226』で萩原健一、三浦友和っていい加減に言ったら、監督は「いいね、おれやるよ。誕生日が2月26日で縁があるからやるよ」って(一同笑)。いまさら違う企画をとは言えなくなって、脚本は笠原和夫さんですかねって言ったら「いいね。笠原さんなら政治的なことも配慮してやってくれるよ」って。
当時は生意気で、よく人と喧嘩しましたけど、五社さんとも何度も揉めたというか。笠原さんと五社さんの意見が合わなかったり。初っぱなは襲撃シーンで、とか内容を事実に寄せていっている間に、天皇をどう扱うかという問題が出てきた。監督はいちばんヴィヴィッドに反応されてデリケートになっているときに、昭和天皇が崩御して昭和が終わるらしい。監督どうしましょうって言ったら、これはさわっちゃいけないとか。しょっちゅう揉める。
このころ企業家から資金を集める映画ファンドを始めたけど、この素材は難しい。脚本のここはダメとか言われて直していると、クランク・インしても、途中であれ?ってところが出てくる。ラッシュで見ていると、将校の加藤雅也が家に戻って藤谷美和子といちゃいちゃしていて、何で戻るんだ? つじつまが合わなくなってる。
当時、琵琶湖に東京のセットをつくっていました。琵琶湖のセットにマスコミを集めてパブリシティをやるっていう前日、監督に、ここがつながらないですから、三浦友和が加藤雅也に1回家へ戻れって言うシーンを入れる案を出したら、監督は「判った、やればいいじゃないか。あんちゃん撮れよ。前から思ってたんだけど、横から口挟むし、あんた監督やりたいんだろ。おれ降りるから」と。あしたマスコミ集めて会見やるのに。もともと五社監督はそのストレートさ、計算がないのが魅力だったんですけど、その日は思わず私はテーブルをひっくり返した(笑)。そしたら監督は「あんちゃん、おれ感動したよ。ワンシーン撮るくらい、やるわ」って。その後は、どうかきょうのことはなかったことにって平身低頭して。翌日、監督が来ないから、やっぱり降りる気なのかなって思ったら、やっと来て鼻に絆創膏を貼ってる。西岡善信さんに訊いたら、監督がきのうの夜飲んで暴れて「あの若造許さねえ」ってビールを割って、鼻に当たったって(笑)。監督は、ずっと私に背を向けてる。そのうち、東京の私の自宅に右翼が来たって連絡が来て戻らなきゃいけない。それで脚本の安藤大尉(三浦友和)の台詞を思い出して「いろいろご無礼しました。お許しください」ってそれをそのまま監督に言ったら、肩が揺れて「いやあ、まいったな」って。そんなぶつかり合いが山のようにね。
戦車が5台のうち3台がベニヤ板に描かれた書き割りで、監督が「プロがやるから大丈夫」って言うけど、いくらスモークで煙幕焚いてもカメラをのぞくとベニヤ板にしか見えない。「監督、ベニヤ板にしか見えません」って言ったら「そういうことは静かな声で言うもんだ。(担当者の)立場がないだろ」って(笑)。(つづく)