(承前)僕らが連載を始めるときは、きちんと設計図を描くのではなく、いつもジャズの即興演奏のようなものでした。『ドラえもん』の場合も、一か月前に雑誌に出した連載開始の予告は、机の引き出しが開いていて、「来月、おもしろいものが飛び出すよ」という程度のものだった。藤本君に「お前、何か考えているのか」と聞いたら、「ここまでしか考えてないんだよ」。「どうするんだ」と言うと、「一か月あるから、それまでにひねり出すよ」ですからね。
アイデアが出るまでトコトン考えるタイプでした。机に向かって腕組みして、じっと辛抱して考える。見ているほうがしんどかった。
結局、連載一回目は、正月、のび太の机の引き出しからドラえもんが飛び出して来るというストーリーで幕を開けましたが、何げなくスタートしたマンガが、どんどん雪だるま式に広がっていくのがマンガの面白いところで、初めからガチガチに決めてしまうと、マンガは生きていかない。『オバQ』にしても、最初は頭の毛が十五本もあったんですから。
藤本君は小学生時代から一貫して人づきあいが好きなほうではありませんでした。東京に出てきた当初も、編集者に会うのが苦手で、交渉ごとは全部僕がやっていた。「藤子不二雄」というのは僕一人かと思っていた編集者もいたくらいでした。
酒をやらない藤本君は、編集者に飲みに誘われてもけっして行かなかったから、しようがなく僕がつきあう。すると僕はそっちのほうがおもしろくなってきたんですね。ゴルフを始めたり、いろんな人とのつきあいのなかで、自分の体験をもとに、リアルな心理状態を描くことがおもしろくなってきたんです。
ところが藤本君はいっさい遊びをしなかった。彼は仕事場と家庭と二つの世界を往復していて、それ以外の横道はありませんでした。彼にとってマンガを描くことが楽しみになっていたんですね。
ある時期から二人が描くものは違う路線になっていました。ドラえもんと相容れないものを僕が「藤子不二雄」の名前で出すわけにもいかないし、「藤子ブランド」が重荷になってきた。そのころ藤本君も体調をこわして、考えることもあって、お互い好きにやろうとなったんです。
頭だけでマンガを描くと、きれいごとで終わってしまうことが多いんですが、藤本君の『ドラえもん』が何十年も支持されているのは、そこに心を打つものがあるからです。ある意味で、すべて自分でオリジナルを生み出してきた手塚治虫先生に匹敵する漫画家だと思う。
自分のあこがれである未来の夢と現実とをドッキングさせ、子供たちに素晴らしいファンタジーを与えてきた。自分が読者の一人として読みたいなあ、楽しいなあというマンガを描いてきて、それが結果として子供たちに強いメッセージを与えてきたんだと思います。これはもう漫画家として理想的な形です。
僕にとっても、藤本君にとっても、人生を決めたのは子供のころの出会いでした。僕が落書きしていたら、ひょろっとした少年が近寄ってきて「うまいのう」と言った顔を今でも鮮明に覚えています。藤本君はいつも、のび太を自分の分身と言っていました。それは自分の夢やあこがれをのび太に託して描いた……ということじゃないでしょうか。もう、ドラえもんを超える児童マンガは出ないんじゃないかと思います。(「週刊朝日」1996年10月11日号より引用)
藤子不二雄A先生は、手塚治虫先生のことを幾度となく「神様」と称してきた。自身と同学年の友人がその「神様」に「匹敵する」というのはなかなか言えることではない。この件りを読み返すと胸に迫る。