今年、アメリカ映画『GODZILLA ゴジラ』(2014)が公開され、日本でもゴジラシリーズの再開が決まった。ゴジラ映画は第1作『ゴジラ』(1954)以来、断続的にシリーズが製作されており、何度か空白の期間があった。『メカゴジラの逆襲』(1975)から仕切り直しの『ゴジラ』(1984)までにも9年の歳月が流れているが、その1984年の『ゴジラ』から今年はちょうど30年である。
この “84ゴジラ” は大人向けにリアル路線を打ち出した意欲作で、登場する巨大怪獣はゴジラのみ。1954年の第1作に直結する続編で1作目を除くシリーズはリセットされている。
12月、川崎市にて “84ゴジラ” について語る中野昭慶特技監督のトークショーが行われた。中野特技監督とは『ゴジラ対メカゴジラ』や『首都消失』(1987)にて組んだ脚本家・山浦弘靖氏も来場されていた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
【1960〜70年代のゴジラ】
中野特技監督は『キングコング対ゴジラ』(1962)など60年代のゴジラ映画では助監督を務めた。そして70年代に特技監督(特殊技術)としてシリーズの特撮を仕切っている。
中野「(プロデューサーの)田中友幸さんはゴジラシリーズをつづけたいという執念があった。『ゴジラの逆襲』(1955)の後で、友幸さんはつづけたいけど東宝はつめたい。東宝30周年のときに、友幸さんは必死にゴジラをやりたいと。(3作目の)『キングコング対ゴジラ』では、友幸さんは1作目2作目の流れを狙ってたんだけど、関沢新一さんが(シナリオを)書いて初めてゴジラをコミカルに持っていった。会社はこれでいいって言ったんだけど、友幸さんはあまりいい気がしなかった。
東宝チャンピオン祭りの当初はゴジラのゴの字もない。でも友幸さんはゴジラをそこに入れたい。会社は低予算でできるならやってもいいよと。友幸さんに安くつくってくれって相談されて、ぼくはやめろって言ったの。でも…と粘られて。
円谷英二さんも亡くなられて、そのころ東宝も合理化を始めて特殊技術課もいらないって話が出てきた。人間国宝って言ってもいいくらいの腕を持った技術者もいるのに。雨降らせたらすごい人とかね。成瀬巳喜男さんの注文は「きょうは淋しい雨」とかね。それを見事にこなす。ホースでやる名人芸、親指の感覚で雨のパースペクティブを表現する。カメラには水をかけないで俳優さんには少しかかる程度にする。浄瑠璃が人間国宝なら、映画人もそうじゃないか」
ゴジラシリーズなどでは監督と特技監督とが並列するが『ゴジラ対ヘドラ』(1971)など特技監督が不在で監督のみのケースもある。
中野「ゴジラを徹底して合理化したから、監督はひとり。坂野義光さんが万博の三菱未来館の仕事をしていて、そのプロデューサーが友幸さんで『ゴジラ対ヘドラ』がつくられた。日本じゃ評判悪くて。ゴジラが飛ぶんで、お前がゴジラをダメにしたとか言われたよ(笑)。でもどういうわけか、アメリカのバイヤーが買って向こうで当たっちゃったんだ。じゃあつづけるかってチャンピオン祭りがつづいた。当たったならもっとお金出せよって言ったら「お金だけは…」と(笑)」
中野「『ゴジラ対メカゴジラ』(1974)では、ゴジラ誕生20周年だったけど予算は同じ。20周年記念だとか肩書き増やすなら金くれよって言っても…(一同笑)。
『メカゴジラの逆襲』(1975)では最初から終わると決まってた。前作の『メカゴジラ』で入ったから、ここで終わるのがいいだろうと。脚本は関沢さんでって言ってたんだけど、関沢さんにまだやるのかって言われて。それで思い切って脚本は新人でいこう。所健二ちゃんという製作担当の人に訊いたら、シナリオ・センターの受講生にゴジラが好きな面白い人がいるよって。それが高山由紀子さんで、彼女の子どもがゴジラ好きだった。ネタ不足っていうのもあって、友幸さんとしては原点に戻したい。それでサイエンスフィクションの味を強くしてできたのが『逆襲』だね。
ゴジラのラストシーンは引きがいい。ヒーローには哀愁がほしい。ゴジラは後ろ姿を撮ると、淋しさが出るね」
【『ゴジラ』(1) 】
中野「『メカゴジラの逆襲』から9年、そんなに空いたんだ。よく9年も、ああでもないこうでもないってやったね。
友幸さんは、原点の一点張り。あの人のうちには電話交換機があって、名前を入れたらかかるようになっていて、夜中でもかかってくる。8、9年間、ぼけっとしてたわけじゃない。毎日電話がかかってきた(一同笑)」(つづく)