2017-01-01から1年間の記事一覧
9月に池袋にて特集上映“大林宣彦映画祭”が開催され、出演者のトークショーが幾度も行われた。筆者はなかなか予定が合わず、最終日にようやく滑り込むことができた。
【自作について】 今年6月のアヌシー国際アニメーション映画祭では湯浅政明監督『夜明け告げるルーのうた』(2017)が長編部門最高のクリスタル賞、片渕須直監督『この世界の片隅に』(2016)が同部門審査員賞を受賞した。
【受賞作について (2)】 片渕「(『杏茸を少々』〈2016〉のつくり手は)宮崎駿のファンですって言ってて、料理のつくり方が好きですって。せっかちなんだよね。ぼくもせっかちなんだけど、もう1回やんないと料理にならないと。料理を基準にして、ドタバタ具…
8月末に東京アニメアワードフェスティバル2018のプレイベントとして、“TAAF2018クリエイターズサロン@ WACCA池袋”が開催され、片渕須直監督のトークショーがあった。フェスティバルディレクターの竹内孝次氏と片渕監督とは30年以上前、『名探偵ホームズ』(1…
【『それぞれの秋』(2)】 演出の井下靖央は、『それぞれの秋』(1973)により第14回日本放送作家協会賞演出者賞受賞。
【木下惠介監督について (2)】 小倉「木下(木下惠介)さんは強かった。飲んでも変わらない。なんかのパーティのときに「一郎!」って呼ばれて、おかわりかな、でも入ってるなと思ってたら「おしっこ」って行っちゃう(一同笑)。
【テレビ創生期の想い出 (2)】 飯島氏は、円谷プロダクションの『ウルトラQ』(1966)や『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラマンマックス』(2005)などでは千束北男名義でシナリオを執筆。
『二十四の瞳』(1954)や『永遠の人』(1961)の巨匠・木下惠介監督がシナリオを手がけ、伝説的に語り継がれるテレビ『冬の雲』(1971)。挿入歌「ポーリュシカ・ポーレ」もヒットした。
【調査について (2)】 片渕「『NEMO/ニモ』(1989)のプロデューサーは藤岡豊さんで、アメリカに持って行って配給したいと。
【『マイマイ新子と千年の魔法』】 片渕「『マイマイ新子と千年の魔法』(2009)の企画は危険だと思ったんですよ。丸田(丸田順悟)プロデューサーから持ち込まれたけど“危険だけど”って。やってくれるとしたら片渕くん、と。
昨年、『この世界の片隅に』(2016)を大ヒットさせた片渕須直監督。その片渕監督の長編映画3本(『アリーテ姫』〈2001〉、『マイマイ新子と千年の魔法』〈2009〉、『この世界』)のオールナイト上映が、“片渕須直 長編アニメーション16年の歩み”と銘打って…
新藤兼人監督『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2008)の後半では、柄本明氏は主人公の晩年を演じている。
脚本家・監督の新藤兼人が100歳で逝って5年。池袋にて第6回新藤兼人映画祭が行われ、柄本明氏のトークショーがあった。
【第1週/第2話】
妻の入院費を稼ぐために結婚詐欺を繰りかえす青年・愛誠を描いた、藤子不二雄A『愛ぬすびと』(復刊ドットコム)。藤子Aの長いキャリアの中でも上位に位置するであろう傑作で、筋の面白さに加えて凝ったコマ割りやペンタッチも魅惑的で、ファンの間でも特に…
【俳優について】 なべ「あらゆる役者は(出演作に)思い入れってありません。優れている役者ほどない。役者は自分が注ぎ込んだ情熱を忘れるって性(さが)がないと、次のものに取り組めない。
【キャリアの回想】 なべ「三木鶏郎の事務所でものを書けって言われて、書いたら売れちゃった。電通の部長さんが仕事つけてくれちゃって、それで間違った方向に行って。昭和33年からやってたけど、35年から水原弘の付き人やって。2年8か月やって、その後はハ…
ウルトラマンをヒットさせていた円谷プロダクションが大人向けドラマに初進出したのが『独身のスキャット』(1970)。瀟洒な室内で物語が展開し、いま見ると昭和のイケてる男女が次々登場するのが面白い。 平凡なサラリーマン(なべおさみ)が自身のマンショ…
【『セブン』について (2)】 『ウルトラセブン』(1967)の第40話「セブン暗殺計画(後編)」には、砂山での戦いのシーンもある。
いまも絶大な人気を誇る『ウルトラセブン』(1967)の放送開始から今年で50周年。町田市の鶴川にて50年記念の『セブン』上映会と飯島敏宏監督 × 古谷敏トークショーがあった。
【『男たちの旅路/車輪の一歩』(2)】 中村「山田さんとつき合いのあった若者たちが稽古場へも来てくれて、車椅子から降りたらどうするかとか。少女(斉藤とも子)のアパートが階段になってるので、どうするか。匍匐前進みたいにするのを、稽古場で自らやっ…
脚本家・山田太一の代表作としてよく挙がるのが『岸辺のアルバム』(1977)と『男たちの旅路』(1976〜1982)。
山田「そのうち、映画もだんだん厳しくなってきて色々なことがあって。なんか脚本家になったほうが自分を自由に表現できるんじゃないかって思い始めたのね。もちろん外的事情もいろいろあって、それで七年間いて辞めちゃったんです。辞めてからはもうずっと…
山田「一つ一つのシーンはチャーミングでね、面白いと思って見てるんだけど、よく考えると別に何のストーリーもなかったなっていうのが、僕の理想なんですよ。あとは現実の味わいをね、例えば恋人と二人で歩いてたりするときに楽しいっていう気がするとか、…
山田「そりゃ(完成作品は)僕が考えていた最初のシナリオとはね、いかにそうやって俳優さん選んだって、色々したって、違うわけですよ。演出家が違うわけですから。その違いがマイナスの違いだって感じたときはね、怒ったり、議論したりする。そういうこと…
山田「(『ふぞろいの林檎たち』〈1983〉では)じゃそれには誰がいいだろうかって。そういう試みは今までなかったですよね。既成のある一曲を使うってことは、僕も今までに何度もやってきてるけど。それで、サザン(サザンオールスターズ)がいいんじゃない…