私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

飯島敏宏 × 小倉一郎 × 仲雅美 トークショー(2017)レポート・『ウルトラQ』『怪奇大作戦』(2)

【テレビ創生期の想い出 (2)】 

 飯島氏は、円谷プロダクションの『ウルトラQ』(1966)や『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラマンマックス』(2005)などでは千束北男名義でシナリオを執筆。

 

小倉「千束北男になっちゃったのは?」

飯島「『ウルトラQ』をやったときだね。いつもぼくは火事場に呼ばれるの。脚本を書く人がいなくて、円谷一さんはぼくが夜中に『月曜日の男』(1961)を書いてたの知ってたから。『月曜日』のころはTBSの演出部にいて、テレビ映画をつくるようになって映画部ってのができて異動した。そこで『ウルトラQ』の第1話「ゴメスを倒せ!」をつくった。強い怪獣がゴメス」

小倉「『ゴメスの名はゴメス』(光文社文庫)ってのがあったけど」

飯島「それもある。ゴメスって名前は強そうでしょ。それで小さい怪獣はリトルからリトラ。大きな怪獣を小さな鳥の怪獣がやっつける話を書いた。そのとき、円谷プロの文芸室の金城哲夫さんが千束北夫を千束北男にしちゃって、印刷所へ」 

 怪奇大作戦』の「白い顔」の映像も流れた。

 

飯島「現場は大変だったの、これは。半日撮ってから解散して、スタッフ全部取り替えて。ぼくも生意気だったから。その前の『ウルトラQ』『ウルトラマン』では手間がかかったから、昼帯をやってる早撮りのスタッフを円谷が呼んできたの。初日にスタッフがむくれて、この初日(のスピード)じゃ1か月に1本しか撮れないと。現場が殺気立っちゃって。円谷英二さんが、稲垣浩さんの息子をカメラの助手に預かってる。彼を一人前にしようってことで、これで一本立ち」

小倉「あの稲垣(稲垣桶三)カメラマンって稲垣浩さんの息子さんなんですか」

飯島「美セン(東宝撮影所内の東京美術センター)で撮った。まだCGがないから大変だったね」

「これはフィルムで撮ってたんですか」

飯島「これは16mmフィルム。モノクロの『ウルトラQ』は35mmで、『ウルトラマン』でカラーになってからは16。予算の問題で。ただ特撮は35だね。裏は大変だった、初めてのカメラマンだし。このころはみんな20代。『ホームカミング』(2011)を撮ったときも、稲垣カメラマンでした」 

小倉「新劇の人たちはテレビに出ることを「マスコミに出る」って言い方をしたんですよ」

飯島「それはぼく、怒った。マスコミって何だ。映画には「映画に出る」って言う。マスコミって軽蔑してるわけじゃないんだろうけど、ぼくには何が映画だって気持ちもあって」

小倉「飯島さんもお書きになってるけど、映画のことを本編って言う。じゃあテレビは予告編かって(一同笑)」

飯島大宅壮一さんが一億総白痴化って言って、こっちは「何を!」って気になる。東宝撮影所で仕事してても複雑で、いよいよおれもステージで撮るって気持ち。ところが東宝と言ってもぼくのほうは、撮影所じゃなくて狭いブリキのステージ。でも撮ったものでの勝負だからね」

小倉「映画会社も斜陽になってきて、テレビ部をつくってテレビ映画をつくり始める。そのスタッフは映画の人ですね。『水戸黄門』の東野英治郎さんのときの映像は違いますね。ちゃんとしてる。だんだんビデオになって、絵はがきみたいにぱちっと綺麗に映るけど、フィルムのロマンはない」

飯島「ぼくは包丁持ってひとりでいろいろ行ったけど、東京の撮影所と京都の撮影所では全く違う。テレビ局もまた違った。でもいまはほとんど同じになっちゃった。おっちょこちょいで新しもの好きだから、気軽に行ってきますって行ったんです」

 

木下惠介監督について (1)】

 やがてTBSから木下惠介監督のもとへ出向を命じられる。

 

飯島「経歴で「TBSから円谷プロに出向」って書いてあるけど、出向で行ったのは木下プロが初めて。木下惠介さんのところへ行って、会社をつくりなさいと。それが37、8歳。昭和45年に木下惠介プロができた。その木下惠介プロはそのままにして、55年に木下プロダクションというのをつくって、これはTBSの子会社でしょ。惠介さんが社長をお辞めになって。それから5、6年経ってからしょうがなくて社長に。いまはドリマックスになった。木下惠介プロというのも、いまでもあるんですよ」

「あるんですか?」

飯島「制作会社ではなく、著作権管理の会社としてある。

 木下さんのところに行けとTBSの偉い人に言われて、でもぼくはプロデューサーかディレクターか脚本書くしか能がありませんって言ったら「それはきみが向こうに行って、木下さんと相談してやればいい」と。木下監督がTBSと契約したから会社をつくりなさいというのが、命令。その偉い人が若いとき演出部長で、ぼくは助監督で予算を書いてた。ぼくは商人、洋服屋の倅で、簿記の勉強をしてて複式簿記が書ける。予算書をバランスシートで書いたら、そんなの書く人はいなくて。演出部長が社長になったときに、木下惠介の会社で帳簿をつけられると思ったんでしょうね。でも木下さんの作風に対して、ぼくは怪獣ですからね。それで30年近いおつき合い。

 初めて行ったとき、代理店の知恵者がサントリー持ってっちゃダメだと。大嫌いだと。コマーシャルで揉めたと。××のウィスキーを持ってって、そしたらもう酒盛りが始まってて、その代理店の人もいるの。ぼくが出そうとしたら、ビロードのすごい袋の入ったウィスキーが置いてある。これじゃ出せないよね。出しなさいということで、つまらないものですと出したら木下さんに「きみね、つまらないものじゃないでしょ」って言われたね。××をおいしそうに飲むの。ほんとはうまいとなんて、思ってないんだよ」(つづく