私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 インタビュー(2006)・『異人たちとの夏』(2)

――山本周五郎賞の審査員もされていましたね。

 

 審査員をやるような柄じゃないっていったのだけど、第1回の受賞者なんだから意味があるんだといわれてね。山本周五郎賞というのは、選考経過の座談会が「小説新潮」に掲載されて、誰が何点入れたとかどのような理由かとかが載っちゃう。これは、試練だったね。僕のとき(引用者註:『異人たちとの夏』)は、野坂昭如さんや田辺聖子さんが推してくださいました。藤沢周平さんは、僕の作品がお気に召さなかったようで、手厳しいご意見もいわれたようです。その後、何かのときにお目にかかったら「ああいうところって、何かいわなきゃいけないでしょう」なんておっしゃってましたけど(笑)。久世光彦さんや重松清さんがもらったときには、僕もずいぶんと推しましたね。

 実際に自分が審査員をやってみると、選考とは公平なものだなと思いました。その審査の座談会では、最初に何点かを入れてくれっていわれるのね。自分は低い点を入れたのに、皆が高い点を入れたからって、そっちになびくのも格好悪い。でも、そんなことはないんだな。皆がそれぞれに根拠があって、かなり本気で議論しましたね。芥川賞の審査員なんかは、作品を読まずにくる人なんかもいるみたいだけども。山本周五郎賞は全部が公開されるから、審査員も自分の器量を問われるね。賞を狙っている人は、「小説新潮」のバックナンバーをご覧になると参考になるのじゃないかな。こういう風に評価しているのだとか、選者の方々の話していることが面白いと思う。

 やっぱり、ぜんぜんどうにもならないっていうような作品は賞をとらないです。プロの作家がもらう賞だから、そんなにどうしようもない作品は候補に上がっては来ないけど、これはどうかなっていう作品も中にはあるわけね。そういうのは、他の審査員の方々もやっぱり認めないんです。文壇的事情だとかいろんなことが絡んでくるような賞ってのは、何だかね。選考の経過を「小説新潮」みたいに全て載せるのは、とてもいいことだと思います。

――小説を審査する立場で気をつけていることなどはありますか。

 

 感覚の問題ではあるんだけれども、僕は文章を見るようにしています。作家で文章が下手でも、話の力で何とかなっている人ってのもいるけどね。僕も自分のことを「じゃあ、お前はどうなんだ」っていわれると困るけど、やっぱり文章が気になるかな。ただ、文章ばかり良くても内容に力がなければ仕方ないけどね。

 それから、人間について新しい発見があるというような作品がいいですね。今更新しい発見なんてあるのかよっていわれるかもしれないけど、やっぱりあるんです。それと、面白いってことだな。基本的には、つまらないものを読んだって仕方ないもの。こっちのものの見方を揺さぶってくれるようなもの、そういう作品がいいなあ。エンターテイメントといわれているような作品でも、人間がしっかりと描けてないものは駄目ですね。読んでいられない。自分の考えてもいないような発想だとか着眼点だとか、そういったものを感じさせてくれる作品は素晴らしいと思います。テリー・ビッスンの『英国航行中』は意表をつかれる話だし、ロジェ・グルニエの『あるロマンス』なんて作品も他者というものを上手く描いているなと思います。ディーノ・ブッツァーティの『誤報が招いた死』はバカバカしい話だけれども、ある種の真実をついていますよね。

 小説はリアリズムじゃなくて、嘘の話でもかまわないと思うんです。フランツ・カフカの『変身』だってそうだよね。フィクションだからこそ描ける真実っていうのがあるんじゃないかな。細かくリアリティがないだとかいうと壊れちゃうけれど、嘘の話だからこそ真実に手が触れるってことがありますよね。カズオ・イシグロの最新作『わたしを離さないで』も全く嘘の話なんだけれど、細かな真実を非常に注意深く丁寧に造形している。リアリズムという点から突っ込めば、やっぱり欠点があるし、それはかなり大きな欠点だと思うけれども、悪くない作品でしたね。全く架空の話を長編で書くっていうのは大変なことだと思う。

 要するに、僕は小説が好きなんだ。それを僕は、自分のことを棚に上げて、あぁだこうだと……。何だか、嫌だね(笑)。自分で書けばいいんだけど、なかなか書けないから、いつもどこかにいいフィクションはないかと思って探してるんです。

――小説を書こうとしている学生にアドバイスをお願いします。

 

 基本的には、フィクションが好きであるということですね。嫌いだよといいながら書くっていうのはおかしいし、それで仕事をしていくのは苦痛だよ。嘘の話をだんだん本当らしく見せて読む人を巻き込んでいく楽しさ、そういう喜びを感じる人じゃないとね。僕は現実だけじゃつまらないと思っているところがある。現実でものすごく悲しくて悔しくて、ものすごく諦めなくちゃならなくて、ものすごく不合理で不公平なものを骨身に染みている人の、それでも夢を見たいと思って書いたファンタジーが好きだね。つまり、ずっと幸福な人が、それでも夢見ようなんていうようなものは力が弱くて読めない。

 ある若い脚本家志望の人に「脚本を書くと家にずっといなくちゃならなくて、3日もすると孤独で耐えられなくなるのだけど、どうしたらいいのでしょうか」なんて質問されたことがあるけれど、やっぱり孤独が好きな人じゃないと駄目かな。僕は少数の友達と付き合って話したりお酒飲んだりするのは好きだけど、なんとなくワイワイっていうのは苦手でライターになったようなところがあります。でも、ものを作る人でも人恋しくて仕方ないって人もいるから一概には言えないけれども、少なくとも書いているときには独りじゃなきゃ書けないでしょう。独りでも平気って人の方が向いてるんじゃないかな。

 

――最後に一言お願いします。

 

 人が書かないようないい作品を書いてほしいと思うね。それには、祖父世代の作品を読むのがいいと思います。前世代のものというのは、それを否定することによって自己形成していく部分というのがあるでしょう。今の小説を読んで「こんなものより、自分の方が上手い」と思うから書こうという気になるわけだよね。だから、前世代を否定するということはいいと思うけれども、今までの小説をほとんど読まないで書こうというのはもったいない。だって、傑作は沢山あるからね。それらを全く読まないで、全て新しい作品なんてまず失敗してしまう。何もかも自分で作り出すわけにはいかないんだから、前世代の前の世代だとか、もっと前の世代だとかを探っていく。つまり、それは前世代の人たちが否定した世代だよね。だから、前世代を否定すると、その前の世代と思わぬところで結びついたりするんです。前世代については生々しいし、今もまだ活躍している人たちだから、それを真似していても世に出てはいけない。それを否定するのは自然なことだと思うね。だけど、前世代が否定していたもの、大正や明治、昭和初期の作品なんかをお読みになると、案外、前世代をやっつける根拠を見出せるかもわからないと思う。前世代を真似しちゃいけませんよ。村上春樹を真似したって、しょうがないですから。(2006年9月4日 取材:金村心平)

 

 以上、早稲田大学第二文学部表現・芸術系専修のサイトより引用。