私の中の見えない炎

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飯島敏宏 × 小倉一郎 × 仲雅美 トークショー(2017)レポート・『冬の雲』『それぞれの秋』(5)

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【『冬の雲』(2)】

飯島「『冬の雲』(1971)は、出だしは視聴率よくなかったの。その前(の作品)が悪くて、ぼくは気がらくだったけど。木下(木下惠介)さんが自分でホンを書くっておっしゃって、ご自分で書いて、もしこけたら木下惠介プロの責任になる。書いていただいたら、数字がようやく2桁。TBSから編成担当が狸穴のマンションへ来て、ざんざん降りの雨でびしょぬれ。お風呂がふたつあったでしょ。木下さんは「飯島くん、すぐお風呂に入っていただきなさい」。視聴率悪いから来たんだよね。お風呂から上がったら「判った!」と。それで上がるようにホンを書いていって、そういうところが松竹で長持ちした理由だよね。

 ちゃんと受けるように書く。1日24時間の話が3回にまたがったりもしたよね。女性が泣くときに、普通は斜めに寄ると美人に映るけど、木下さんは「そんなのバカですよ」。木下さんの映画を見ると、望月優子さんが泣く寸前にぷっと後ろ向いて肩が震える。「そうすると客が泣くんですよ。本人が泣いちゃダメですよ」。望月さんはこみ上げるまで見せて障子に隠れる」

小倉「木下さんは「近藤(近藤正臣)くんの役はすけこましだったんですよ! 途中からいい子にしちゃったんですよ!」(一同笑)」

飯島「『柔道一直線』(1969)のころに「ピアノの上でかけっこしてる人連れてらっしゃい」って。木下さんに会う前に面接したら、その日に三島由紀夫が自決したの。彼は興奮しちゃって口が聞けない。変わった青年だなと思ってね。「三島由紀夫が…」ってので、木下さんにそういう話しないほうがいいよって言ったけど」

 

 仲氏が歌った挿入歌「ポーリュシカ・ポーレ」は大ヒット。

 

飯島仲雅美を見たとき、びっくりしたけどね。この人は役者? 顔はいいけど」

「歌い手としてデビューはしたけど、ブラウン管にも何度かしか出てなかったですね。飯島さんも知らなかったですよね」

飯島「見てなかった。かわいいなと思って派手な服で、でも芝居した経験はなさそうで。本読みからだんだん、高道(山田高道)がついて」

「日本ビクターの所属して、関連会社から『冬の雲』の番宣写真を貸してくれ、それでデビューさせたいという話がビクターに入ったらしい。「ポーリュシカ・ポーレ」の日本語版でと。その話が急遽来たんだけど、一郎にも忠司さんからその話があったんですって」

飯島「あんなにヒットするとは思わなかった。TBSでは「『冬の雲』の歌は讃美歌かよ」って言ってたらしい。主題歌は「苦しき夢」で、そりゃ営業には苦しいよ(笑)。売れると思わなかったです」

「10月くらいまでドラマが延びて、歌は8月くらいに出して。ドラマの撮りが終わった後の深夜にビクターへ行って、やけ酒くらって入れました」

小倉「忠司(木下忠司)さんに会いたいって言われて材木町のマンションに伺ったら、山田太一さんもいて、紹介してくださって。太一さんは帰っちゃって、それで忠司さんと奥さんが「ポーリュシカ・ポーレ」を唄わないかって言ってくださったけど、ぼく生意気で断っちゃった。それでこの人のところに行って大ヒット。おれ、歌っときゃよかった(一同笑)」 

 『冬の雲』は、再放送やソフト化はされていない。

 

飯島「お金に困らない木下さんが、一瞬お金に困ったことがあったの(一同笑)。TBSはお金の用立てをして、『冬の雲』と『冬の旅』と『それぞれの秋』(1973)はTBSへ。そのままになってる。難しいんですよ。木下プロダクションの作品の権限はドリマックスにあるけど、木下惠介作品は木下惠介プロにある。

 『冬の雲』の再放送はTBSがOKしない。承継者がいなくなってて、事情は知ってますけど(一同笑)力関係は判らなくて。門外不出になっちゃってる」

「マスターテープは残ってるんですか」

飯島「あります」

「それすら判らなかったから」

飯島山田太一の『旅への誘い』(1975)は棄てちゃった。木下プロの本社マンションの押し入れに入れてあって、木下さんは「終わったものはとっとくな。無駄なものは棄てなさい」。税金で在庫になって無駄だと。そのころはいまみたいな時代が来ると思わなかったし、木下さんが100パーセント株主だし鶴の一声で。大橋さんと私の一存で人間の歌シリーズは残しました。映画会社は絶対にネガを残しますからね。残そうよって残した。手柄話(笑)。おしんこ食べるような人間だったら残さなかったですね。ただ残ってても再生するのは大変。

 『冬の旅』の最終回はオンエアされてものといまのとで、違う。最終回のオンエアが済んだ後で撮り直したんです。木下さんの「あの芝居は何ですか」っていうひとことで。最終回であおい輝彦は死ななきゃいけないんだけど、あおいくんは頑張っちゃった。いま残ってるのはきちっと終わってる」

 

【『それぞれの秋』(1)】

 山田太一の初期代表作『それぞれの秋』は飯島氏がプロデュースして、小倉氏が準主演。

 

飯島「『それぞれの秋』は山田太一木下惠介とは違うよというアイデンティティを示した作品。新鮮でした。以後、木下さんは、太一ちゃんは弟子ではないと。木下さんは、ぼくは女の性(さが)をえぐり出したいとおっしゃっていて「太一は堂々と書いた」と。それが『岸辺のアルバム』(1977)です」

「ぼくが木下さんと初対面のときに、言ってましたもん。男や女の性をテーマにやっていきたい、そんな気持ちだと」

飯島「『岸辺のアルバム』は、太一さんが人間の歌シリーズでやろうとして企画書を書いてきて。多摩川の川原の飲み屋で見て、これ惠介さんには無理だよと。生々しかったでしょ。TBSでつくってもらおうと、大山(大山勝美)さんに回した。それから木下さんは、太一ちゃんは弟子ではありません、太一という存在ですと」

小倉「木下先生が言ってたのは「太一ほど頭のいい脚本家は日本にいませんよ!」。あと「私、意地悪な人とか根性悪い人大嫌いですから、私の作品には悪い人は出てきません!!」」

「そうそう、そんな言い方(笑)」(つづく