私の中の見えない炎

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矢代京子 トークショー レポート・『九十九本目の生娘』(2)

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【新東宝時代の想い出】

 矢代京子氏は、中川信夫監督の新東宝映画『ひばりが丘の対決』(1957)にて初めて重要な役を演じた。

 

矢代「新東宝で売り出してくれるということで。『ひばりが丘の対決』というのがありまして、上高地に遊びに行ったときに中川監督に見出されて抜擢されたと週刊誌に。そういうお触れがマスコミに出されて、私嘘ついてるみたいで(笑)。実際には応募しました。飛騨の平湯館というところがありまして、20日くらい滞在しました。私、高島忠夫さんの大ファンだったんですが、これが恋人役で萎縮しました。お芝居なんて全然判らなくて、中川先生にずいぶん指導されましたね。

 『明治天皇と日露大戦争』(1957)、あのときが初出演でその他大勢ですね。研究生で俳優座から先生がいらっしゃっていて。あの映画の提灯行列に出て、愉しくて愉しくて。

 『荒海の王者』(1957)は仙台の松島で撮りました。あちこちつれて行かれて(笑)」

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 この日に上映された『汚れた肉体聖女』(1958)にも、矢代氏は登場する。

 

矢代「その映画は拝見してないんですけど、尼僧の役でストーリーはよく判らない(笑)。土居通芳先生でしたね。原知佐子さんもお出になってて、お電話したら“そんなの、覚えてないわよ!”(一同笑)。

 『競艶お役者変化』(1960)は中村竜三郎さんとごいっしょに。これも見ていませんでした。伊豆のほうにロケに行って、愉しい青春の1ページですね。時代劇も好きでしたけど、新東宝ではあまりなかったですね」

矢代「大蔵さん(大蔵貢社長)になってから、裸物とか“何々の肉体”とかが多くて。私の出番はあんまりなかったんですけど。いつも純情な娘とか誰かの妹役が多かったですね。

 (『不如帰』〈1958〉は)スタジオで撮ってましたね。大蔵社長が自分で演じてみせちゃうの(一同笑)。やりにくかったと思いますよ。社長が言う通りに演技するけど、お帰りになると自分のやりたいように演技する。大蔵さんは女優さんに関しては優しかったんじゃないですか(一同笑)。男優さんは竜三郎とか彦三郎とか、みなさん二枚目のつもりなのにそんな名前つけられて。

 社長はお小遣いくれるんです。3000円くらいで、当時としては大きいですよ。何でくれたんでしょうか、私たち嬉しくて。花束女優って言われて。パーティがあったり、俳優さんが東南アジアへ行くっていうと羽田へ行ったりして花束渡す。そのときに3000円(笑)。

 あるとき私はある大先輩と部屋がいっしょで、帰ってくると“ちょっとお嬢さん、障子の桟にほこりがついてるから拭きなさい” 。大変でした。他の俳優さんがかわいそう、撮影で疲れて帰ってきてるのにと。それで私たちの部屋に来なさいって言ってくれました。割とみなさん親切にしてくれて、愉しい撮影所生活ができましたけど。結髪さん、照明さん、カメラさんも優しくて感謝しております。よその撮影所は知りませんけど、新東宝はあたたかくて。いまでも5〜6人、下北沢に集まって昔話をしています。

 振り返りますと青春時代のいい想い出になりました。当時は高嶺の花みたいに言われましたけど、作品が作品ですからね(一同笑)。雑誌のお仕事で五社の俳優さんと座談会をやると大映、松竹ときて“矢代さんはどんな映画にご出演ですか”って言われると花嫁、花婿、肉体の何とか。とてもはずかしい気がしました。いいな、よその女優さんは文芸作品に出られて。私はどうして肉体の何とか(笑)。『性と人間』(1960)は○○さんの第1回作品で、名前が出てないのは○○さんも厭だったんじゃないですか。第1作が『性と人間』(笑)」

 

 『網走番外地』(1965)や『恐怖奇形人間』(1969)などで知られる石井輝男監督の作品では、『黒線地帯』(1960)などに出演。

 

矢代「(石井監督は)みなさんごぞんじだと思いますけど、東映でよい映画をお撮りになってましたね。三原(三原葉子)さんのことは葉子さんで、私たちのことは呼び捨て! 何で葉子さんって言うんだろうって、私たちも若かったですね。嫌いでした(一同笑)。石井ファンの方がいると申しわけないんですけど、印象に残っていることはないです(一同笑)」

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 映画と平行してテレビにも進出。TBSや木下プロダクションなどで多数の作品を演出・プロデュースした飯島敏宏氏と結婚されて引退。

 

矢代「大蔵映画路線にはあまり乗らなかったんですけど、そんなに映画に出てるならテレビのほうにおいでよって言われまして。初めがTBSで各局出させていただきましたけど、そのころも新東宝では作品をおつくりになっていたんですね。待田京介さんの『月曜日の男』(1961〜1964)は素敵でしたね。その前は時代劇に出させてもらって。(そのころに)職場結婚ですよ(笑)。(飯島氏が)辞めてくれって言うんですもの。いっしょにやるのは照れくさいみたいで。きょうも私がトークにでるのは心配みたいで付き人でついてきましたけど。

 結婚してからNHKの時代劇に出させていただいたりしたんですけど、子育てがありまして、息子にテレビなんか出ないでくれと言われまして。PTAに行きますと他のお母さんがいろいろ言ってはずかしいから止めてくれと(笑)。息子が大学に入って、もういいよ出てもって。駅でおばあさんのポスターに出ています。

 青春を過ごさせていただきました。新東宝は青春の1ページですね。このときに戻りたいと思っても戻れませんが(笑)」

 

 場内にはご主人の飯島監督やひし美ゆり子氏の姿もあった。

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異端の映画史 新東宝の世界 (映画秘宝COLLECTION)

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