【撮影などのエピソード (1)】
山際「(『狂熱の果て』〈1961〉の撮影は)2週間か3週間で、2本立てで忙しい当時としてはスタンダードかな。ひどく忙しかったですけど。ちなみにぼくがその後で助監督をやった柴田吉太郎さんの作品は、同じ佐川プロなんだけど途中で金がなくなって中止。やれやれと思ってたら「金を借りたからすぐ来い。またやるんだ」って。そういう混乱の時代でした。
7月ごろから準備を始めて9月ごろにクランク・インしたと思うんですけど、撮影してる間に新東宝の映画館がどんどんなくなっていっちゃう。第二東映や松竹に映画館をとられちゃうんですね。
秋本(秋本まさみ)さんの日記が素材で(六本木族の)何人かに話を聞いたような記憶があるんですけど、きょうはどこに行って食事したとか映画にはなりにくい話ばかりで。こっちで話をつくった感じです。
ぼくが狙ってたのは、登場人物たちを批判的に見ていく映画ということですね。大抵の青春映画は青春を謳歌して暴れまわる人たちに感情移入して、大人たちや社会が悪いという図式が多かった。日活もそうですね。その中には尊敬する作品もありますけど。でも松竹の大島(大島渚)さんや吉田喜重さんが出てきて、ぼくも登場人物に同情するんじゃない描き方ができないかなと思ってました。だけど見るとやっぱり、新東宝の伝統の中でしかぼくもつくってない。日本映画のつくり方のマイナス面、そういうものを引き継いでいるなと感じます。監督のスタイルという意味では石井(石井輝男)さんの影響も大きいですけど。セットのつくり方とかロケーションをどこでやるかとかの段取り、新東宝映画は海っていえば葉山で高速道路っていえば東京横浜通り(笑)。もう決まり切っていて、ロケハンもしないでぱっと行って撮る。撮影所のにおいがぷんぷんして、いまとなっては古くさいなっていう感じがするんです。
石井さんが亡くなったときの「映画芸術」での桂千穂さんと内藤誠さんとの鼎談で「山際さんの『狂熱の果て』、あれは石井さんのコピーだよな」って桂さんに言われてね。むっとしたんですけど(笑)後で考えると石井さんのコピーってむしろ名誉かなと。桂さんにも言って謝りましたけど」
山際「アウシュビッツごっこの場面は、ちょっとはずかしいところなんですけどね。新東宝はおばけ映画は得意で、中川信夫さんとか。ぼくも助監督をずいぶんやりましたけど、おばけ映画っていうと当時はダブルエクスポージャーっていいましてね。四谷怪談みたいにぼんやりと女が出てきて、男はびっくりする。何も二重写しにしなくても、生でそのまま出てくりゃいいじゃないかと言ってました(笑)。それを実践してみたんですが、生で出てくるまでに持ってく運びは稚拙だなって感じました。もっと叩き込んで、みんながその気持ちになっていくには余裕がなさすぎる」
五月藤江がはねられるシーンはややショッキング。
山際「おばけ映画は血のりが飛ぶシーンが多かったので「頭蓋骨が割れて中身が飛び出すんだ」って言うと小道具さんやメーキャップの人も「はい、判りました!」って(一同笑)。あの中身はお豆腐なんです。
五月さんの旦那さんの邦創典さんが刑事役で、サイレント映画時代からの古い役者さんで新東宝に流れ着いた方です。大真面目にやっていただいて助かりました。撮影所のパターンと新しいものとがうまくいってない気もするし、まあまあこれしかなかったかなというところもあって難しい」
山際「なるべくロケにしようと思いました。セットだと、ひとつのステージで壁は同じでドアだけ変えてあるみたいなのも多いんです。経済的なことばかりのセットがあったので、ロケのほうがよいと。(ロケ現場では)お天気がよくなきゃいけないはずなのに、やむを得ず曇ってる日も撮りました。技術パートはせいいっぱいやってもらったと思いますね。カメラマンの岡田公直さんとはぼくと気が合ってて、酔っぱらうとすぐ助手たちを殴るという暴れ者(一同笑)。ハラスメントは当り前でした(笑)。ぼくは認めてもらって「山ちゃん」「山ちゃん」って言ってくれて。岡田さんのおかげで助かった部分もだいぶありますね。岡田さんの指示で照明をここにもうちょっと強く当てろとか(技術面は)岡田さんが中心になってましたね。何カットかはカメラをのぞいたと思いますけど、岡田さんにおまかせでした」(つづく)