
安藤「「高野聖」の冒頭は飛騨の山中で宗朝が陸軍参謀本部の地図を手に歩いています。陸軍参謀本部の地図ってのは当時としては最新の科学的な測量に基づいた、日本で最も正確無比な図です。それから列車とかステーションとか、明治の世の中の最新の文明の利器が強調されてます。列車で旅してるわけですからね。いまのわれわれからすると尾張から敦賀へ行くのにそんなに時間がかかるのかよって思いますけど、当時からすると最新なんですね。
外枠の時間は明治時代で現代だと強調されているんですね。しかし陸軍参謀本部の地図を持っていても、歩いているうちに不思議な世界に入ってしまう。そして伝言ゲームもあって、読者も釣り込まれて男たちが魑魅魍魎に変えられてしまうのに立ち会うことになる。日常世界から移り変わっていくプロセスも丹念に描いてみせています。
村里とひとつ家、その間に蛭が降ってくるおそろしい森がある。その森を越えていくんですが、文化人類学で言う通過儀礼。この世からあの世に行く境界があって、その通過儀礼を越えないとダメなんです。帰ってくるときもただ帰るんじゃなくて、女夫滝というのがある。宗朝はひとつ家で女と暮らしたくて、帰ろうか悩む。この点も通過儀礼ですね。
村里が現実でひとつ家は異界だってよく読んじゃうんですけど、私はどうも違うと思ってる。ひとつ家はまだ異界そのものではない。異界よりまだ上に大滝があると、女の口から語られています。13年前の洪水も大滝のなせる技だったと書き込まれている。洪水始祖神話というのがあって、ノアの洪水みたいなものですね。神が怒って洪水で下界をすべて流してしまって、そこでリセットされる。世界各地にいろんな形で残っていてそのひとつだと思うんですが、大滝は集落を全部流してしまっておそろしい存在であると同時に、旅人の怪我を水で流すなど聖なる施しを行ないます。すべてを司るのはどうもこの大滝で、ひとつ家は半端で、大滝と現世との中間ではないだろうかと。大滝と女夫滝と村里とを川がつないでいる。このひとつ家の女といえども大滝の支配を免れるものではない。
女は大滝と現世との間にいる中途半端な性格で、大滝の流れる川の威力を借りて13年経っても娘のころと同じ美貌を保っていた。聖なる水を使いながら男たちを動物に変えていたわけですから邪悪な存在です。神の力を私物化していると言っていいでしょうか。実は女自体にも孤独な宿命があったのではないか。これは仮説ですが、そうやって読むと広がって読めてくる。
作中に「白桃の花」という言葉が2回出てきます。その部分を、お読みになるときに鉛筆でチェックしていただきたい。川で水を浴びて宗朝を誘惑する場面の一節で出てくる。女は嬉しそうな表情をするんですが、もしかしたら容姿を誉められたからだけじゃなくて、自分の孤独な宿命を受けとめてくれたということが密かにあったのではないでしょうか。はっきりとは書いていないですが。それと呼応するように、別れるときにまた「白桃の花」と言っています。私の仮説ですが、そうとったほうが面白く読める」
安藤「ぼくはやはり「高野聖」は徹底して近代の物語だと思うんです。この女の中途半端さというのは、まさに近代の世の悲劇なんじゃないでしょうか。共同幻想を素直に信じることができず、かといって科学文明だけに専属することもできない。近代の中途半端な姿ではないか。それを鏡花は描きたかったのかもしれない。表層の物語では仏教の教訓譚の形をとっていて、女の邪悪な色香に惑わされなかったお坊さんが帰還できたと読める。だけど一歩進んでみると、共同幻想の成り立ち難い宿命を宗朝が受けとめてあげる物語として、近代の物語としての「高野聖」の魅力があるんじゃないでしょうか。
私の知り合いに江戸文学の有名な先生がいて、もう亡くなっちゃったんですけど。大変尊敬していたんですが、あるとき「安藤さん、何でみんな泉鏡花をありがたがるの? あんなの江戸にいくらでもあるよ。ああいう怪異譚っていっぱいあるんだよ」って。そのとき私にはもやもやしたものがあって、上手く言えなかったんですが、いま言えたような気がするんですね。鏡花は近代の孤独、悲しき宿命を描いた人だと」
講演の後に寺田農氏による「金色夜叉」と「高野聖」の朗読もあった。寺田氏は赤いソックスで朗読(この3か月後に氏は逝去した)。

