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山際永三 トークショー レポート・『狂熱の果て』(1)

 無軌道な若者たちの蛮行をドライに描いた映画『狂熱の果て』(1961)。テレビ『帰ってきたウルトラマン』(1971)や『ウルトラマンエース』(1972)、『恐怖劇場アンバランス/仮面の墓場』(1973)などの名匠・山際永三監督のデビュー作である。長らく行方不明だったが、2018 年に国立映画アーカイブでネガが発見されたという。 

 5月に阿佐ヶ谷でリバイバル上映と山際監督のトークが行われた。『異端の映画史 新東宝の世界』(洋泉社)などの下村健氏が聞き手を務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

【企画段階】

山際「1960年に新東宝ストライキがあって会社がつぶれちゃったんですね。日本映画は2本立てで本数を撮ってた時期です。東映や松竹に映画館をとられて、新東宝は直営館を持ってない。いちばん先につぶれた。残った映画館に配給するために別会社ができて、大宝と言う名前。作品を早くつくってくれということで、佐川(佐川滉)さんという役者からプロデューサーになった人が「山際やるか?」。それで喜んでやりますということで。

 映画監督というのはつくりたい作品を最初からつくれるわけではなくて、プロデューサーからこういうものつくれって言われて始まるわけで(笑)。新東宝に残っていた役者さんたちも出られるようなものを、ということもあったし。渡辺プロダクション渡辺美佐さんから六本木族という無秩序に遊んでいる若者たちを描けという企画もあって、有無を言わさず。六本木族の秋本まさみさんが日記みたいなのを書いてて、それが原作で多分出版はされなかったです。ストーリーはこっちでつくっちゃった。松竹の大庭(大庭秀雄)さんや木下(木下恵介)さんのような知的な映画が好きだったんですけど、新東宝に入って揉まれてるうちに石井輝男っていう乱暴な監督とめぐり会って弟子になったもんで。石井さんはきょうの映画のような調子ですし、そっちに傾いていった(笑)。1本か2本、シナリオを自分で書いてみたこともあったんですが、どうも完成するところまで至らず、当時ある人からは「山際は自分でホンを書かないからダメなんだ」って盛んに怒られたりして(笑)。だから助監督で同じ年代の山田健さんにシナリオを頼んで、いっしょにやったわけです」

 

【スタッフとキャスティング】

山際「青野(青野暉)さんはぼくの先輩だったんですけど、チーフ助監督をやってくれたんです。会社がつぶれて混乱の時代ですから。佐川さんは組合の委員長で、ぼくは副委員長。みんなの仕事がないのに組合の奴が先に映画を撮るとは何ごとだと反対もあったし、組合の方針をめぐってもああでもないこうでもないと複雑で、助監督を30人ぐらいがみんな拒否して誰もついてくれないんですよ。困って青野さんに相談したら「おれはやるよ」って言ってくれて。テレビ映画で活躍した土屋統吾郎さんが入ってくれたし、曽根さんって人と3人が助監督をやってくれたんです。カメラと照明、美術はみなさん協力的で。足立正生さんはまだ日大の学生で、ぼくのとこに撮影所見学に来たんですね。1週間ぐらいいたんですけど、ただ見てるだけじゃつまらないんで手伝いをやってくれて彼は「おれは山際組のフォースだった」って(笑)」

 

 主演は星輝美と藤木孝。 

 

山際「役者さんたちもまあまあ上手くやってくれました。(キャスティングは)佐川さんと相談して決めたという感じで、新東宝の若手で残ってた人たちを総動員してます。大部屋の人はおじいさんおばあさんばっかりで、とても若者の映画にならない(笑)。いろんなところで何とか若い人を、とさがして集まってもらいました。星さんは企画の前から決まってました」

 

 2019年に山際・星・藤木の三氏によるトークが渋谷で行われ、藤木氏はお元気そうだったが翌2020年に急逝した。

 

山際「当時はナベプロ(渡辺プロ)も始まったばかりで、渡辺美佐さんも佐川さんに任せるという感じでした。藤木さんは渡辺プロの推薦で、佐川さんが見て来いということで歌ってる姿を見たりしました。

 3年ぐらい前にみんなでこの映画を見てよかったねって言った直後に藤木さんは亡くなっちゃって、相当ショックを受けました。藤木さんが何を思いつめて死んだのか、ぼくも疑問ではあるんですけど。きょうも見てみて、この映画と藤木さんの死とが重なってきていたたまれない気持ちもあります。会ったときはお元気だったんですが。なんか関係があるような気もして、藤木さんご苦労さまでした、ありがとうございましたと言いたいですね」

 

 星氏は客席に来られていて、発言された。

 

「佐川さんには、私が中学生のときに近鉄の電車の中でスカウトされたんです。長いおつき合いでした。

 きょうはこの映画ができるまでそんなに大変だったと初めて知りまして、ほんとにご苦労さまでございました。若いときは44キロでした(一同笑)」(つづく

 

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