私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山際永三 トークショー レポート・『男が血を見た時』『たそがれ酒場』(3)

【新東宝入社と『たそがれ酒場』 (2)】

山際「『たそがれ酒場』(1955)のチーフ助監督は三輪(三輪彰)さんで、内田(内田吐夢)さんが撮影を粛々と進めていると三輪さんはぼくらにいちいち「これはこういう意味で、こうやって撮影してるんだ」って解説してくれるんですね。はあ、そうですかと(笑)。セカンドは下村堯二、サードは高橋繁男、ぼくはフォースでカチンコを打つだけで他はやらなくていいと。撮影は20日くらいやってたと思いますけど、酒場でひと晩の話で、ひとつのステージの中でやっててエキストラの人のビールの減り方が問題で誰のビールが何分の一とか。もちろんスクリプターさんもいるけど、助監督も意識して、エキストラにあなた休んじゃ困りますよって。でもエキストラもつながりのある役は喜んでやってくれましたね。忙しいけれども和気あいあい。

 全くひとつのセットでわざとやるっていうのが内田さんの狙いでしたね。2階の設定ですから人が出入りして。ある場面では美術の伊藤寿一さんが計算しましてね、カメラが入れるようにここの壁を外れるつくりにするとか。「ここは外れません」って言われて、じゃあカメラの位置はこっちにしようとか。本当はでかいステージの真ん中に建てればいいものを、いろんな制約もあって小さいステージに。でも内田さんはその制約を喜んで、クリアしてみせるって意気込みでした。大道具とか照明とか録音とか若い連中は内田さんを尊敬して朝、内田さんが入ってくるとみんなで「おはようございます!」って雰囲気がよかった。三輪さんは「あれはスタッフ操縦法のひとつなんだよ。よく覚えとけ」って(笑)。

 他に新東宝生え抜きの内川清一郎監督にはつきました。ちょっとサボって(笑)」

【大倉貢社長との争い】

 1955年末に、強烈な個性の大蔵貢が新東宝社長に就任。組合に所属していた山際氏は敵対する。

 

山際「五所(五所平之助)さんのような外部からの監督も来なくなって、大蔵社長の体制ですね。外部の監督は(報酬が)高いから使わない。社内の若いのにやらせろってことで石井さんや三輪さんが監督をやり出します。『たそがれ』からしばらくは、ぼくは腐っていたんですけど石井さんたちがやり出してまた面白くなってきた。

 大蔵さんは元弁士で、映画館の館主で山手線のどっかにある二流館を3つぐらい持ってて、日活の株主でもあった。だから映画界で発言権もあって、後楽園資本が手を引いたときに大蔵氏が入ってきたんですね。大蔵貢が『明治天皇と日露大戦争』(1957)なんてやると組合の人たちは戦争賛美だからやめろって言ったりして。ぼくは、作品のテーマは自由だという主義で『日露大戦争』に反対はしませんでしたけど、賛成ではない(笑)。

 撮影の雰囲気も変わってきて、ステージの壁に「Time is money」って書いてあるんですね。そりゃそうですけど、助監督が歩いてると制作部の部長とか課長とかに「走れ!」って言われる。何言ってやがんだってこっちはのろのろ走ってました(一同笑)。撮影してるとステージに大蔵氏が見に来るんですね。いろいろ言って、帰るときに昼飯にと5000円ぐらい置いとく。でもスタッフは30人ぐらいいて5000円じゃ大したものは食えない。もらうのも厭でね。そういうのを平気でやる社長でした。

 新東宝の第2撮影所が世田谷の上町にあったんですよ。プールもあって特撮はそこでやった。その時価3億と言われた撮影所を、1億の融資のかたにしてあってね、その金を大蔵は自分のものにしちゃう。大蔵個人が大蔵社長に金を貸したということです。そんなバカな話があるかって検察庁に告訴して。取締役が自分の利益のために会社の金を横領した。検察庁も決定は出さなかったですけど、大蔵は追い詰められて。みんな大騒ぎで24時間ストライキも2回やりました。本社は八重洲口にあって、みんなでバスで乗りつけて大勢で社長を取り囲んで団交だと。ぼくと青野(青野暉)さんは、当時必ずあった電話の交換台に行って「みんな引っこ抜け」ってコードを引っこ抜いて。女性の交換士が3人ぐらいいてみんな賛成で「大いにやってください」(一同笑)。最後に大蔵社長が夜中にいきなり真っ青になって吐いてしまって。「もう辞める」ということで、ああそうかと。団体交渉は効くものですね(一同笑)。辞めるとは思わなかった。

 組合の中で、ぼくは辞めさせて終わりというのは反対でした。大蔵が辞めれば、さらに悪い資本家が来るに決まってる。大蔵に金を使わせるようにして映画制作を維持するという方針で、その点で佐川(佐川滉)さんとかと一致してました。ただ他の委員は大蔵を辞めさせるのが目的で、そういうふうに走っちゃう。大蔵さんが退陣して、その後にろくなことにはならないという心配はありましたけど「ざまあみろ」(一同笑)。

 後から入ってきた安部鹿蔵さんが幸いしっかりした人で、再建して国際放映になっていったということですね。銀行取引を停止されたりしたので、社名を変更して。減資っていう、資本金が半分になって新東宝の株を100株持ってた人は50株しかなくなる。でも社名を国際放映に変更すれば(新東宝の50株に加えて)50株でも国際放映の株がもらえるってことになるから、安部さんが上手いことやったんですね。安部さんは立派でした。作品のプリントは、ダメになっちゃったのもあるけど大体は国際放映が保存してます。ぼくは国際放映の社員もやって、何年かしてフリーになりました」

 大倉社長退陣の翌年に山際氏は『狂熱の果て』(1961)により監督デビュー。

 

山際「(『狂熱』の)佐川さん(佐川滉プロデューサー)は石井さんのプロデューサーで組合もやってたし、ぼくと気が合う。

 きょうの映画(『男が血を見た時』〈1960〉)から60年以上経っちゃっています。ぼくらがつき合っていた人たちが鬼籍に入っていまはいないんで、ぼくが引っ張り出されて、歴史の生き証人になんなくちゃと思っています。もう来年はダメになる(笑)」