私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会 “物語のできるまで”(1997)(4)

 テレビ番組なども、あたりさわりのないものがよいとされています。何年か前に、「このごろバカが多くて疲れますね」と桃井かおりさんがつぶやくコマーシャルがはやりましたが、すぐ放送禁止になってしまいました。バカというのは、病気の方や障害者の方を言っているわけではありません。むしろ、ふつうの人のことをバカだと言っているわけで、差別問題ではないのです。現実に、「バカが多くて疲れる」というセリフはみんな言いますし、口にしなくても、そう思っている人は多いですよね。自分以外はバカだと思っているのがふつうの人間ですから(笑)。でも、やっかいなことに巻き込まれるのはいやだから、だれかにちょっと文句を言われると、パッと取り下げてしまう。

 

 合理的で論理的なドラマはつまらない

 あたりさわりのないきれいごとばかりの物語がつくられて、物語と現実との距離がどんどん開いてしまう。無理やりに引き裂かれていくという状況は、いまの社会には多いですね。そういうときに、「いいんだよ現実なんて。いい気持ちになれればそれでいいんだ」という考え方で、現実離れしたドラマばかりつくっていてよいのでしょうか。せめてドラマくらいは、現実を描かなければいけないのではないでしょうか。

 ドキュメンタリーはありのままの現実を描くものですが、描かれるほうはたまったものではありません。あるご夫婦をドキュメンタリーで撮る場合に、ご夫婦がそれぞれに、「おまえなんか大嫌いだ」と互いの悪口を言っている場面を放送したら、そのご夫婦はいっしょに暮せなくなってしまいます。しかし、ドラマならできるのです。

 ドラマは、現実に存在する人の話ではないという前提でつくられています。「主人を殺したい」と言っても――口にするだけでなく、ほんとうに殺してしまったとしても、だれも傷つかない。そういう意味では、ドラマは現実の世界に踏み込みやすい側面をもっています。そうした特徴をだいじにしなきゃいけないと思うのです。

 しかし、最近のテレビ・ドラマは、現実からどんどん離れてゆく方向にあります。先ほどのストック・キャラクターではありませんが、ある主人公がいると、それとは対立的な立場の人物がいて、その周りにきれいどころをそろえてというように、知的に構築されるドラマが多くなっています。

 脚本を書く手法の一つに、「箱書き」というのがあります。最初の場面があったとしますと、次にどんな場面をもってくるのかを、プランとして順に書いてゆくのです。そうして全部のシーンをおおまかに書いてしまって、全体を見渡して、足りないところを補強してゆく。つまり、最初にドラマ全体の設計図を書いてしまうのです。推理ドラマなどには論理性が求められますから、こうしたつくり方は有効です。

 ところが最近は、推理ドラマにかぎらず、箱書きでつくられるドラマが多くなっています。しかも、ドラマをつくる前に、脚本家やプロデューサー、演出家たちが集まって、議論をして、おおかたのストーリーをつくってしまうのです。会議では論理性が求められますから、つくられる物語はどうしても論理的になります。「なんだかわからないけれど、次はこういう場面がくると気持ちいいね」というのではだめなんです。理由をちゃんと説明できなきゃいけない。

 そうすると、人間の知的な部分は描けるけれど、わけのわからない部分や理屈にあわない部分はドラマからどんどん排除されてゆくのです。そうしたドラマのつくり方には、私はものすごく反対です。脚本家教室の生徒たちにも、「箱書きなどという便利なことをやってはいけない。最初の場面だけ思いつけばいい」と教えています。

 このシーンから始まるのがいいなと思ったら、そのシーンだけを描く。そして、次にどんなシーンがくれば、観ている人を楽しませたり、ドキドキさせたりできるだろうかと考えて、そのシーンだけを描けばよい。シーンが先にゆけばゆくほど選択肢は増えるのですが、そのなかで一つずつ考えるのです。そうして順番に書いていって、最終的に一本のストーリーを書きあげたら、それが箱書きだと教えているのですが、「生徒を惑わすようなことを言わないでくれ」としかられます(笑)。

 天才なら別ですけれども、私のような人間には、最初に物語の全体を見渡すなんてできません。ある部分がほんのちょっと――こういう魅力的な人物がいたらいいなということくらいしか思いつかない。それがふつうではないでしょうか。むしろ、最初にすべてをパッと見渡せるほうがおかしいような気がするんです。

 論理性が求められる論文でも、ほんとうによい論文というのは、最初に全体を見渡して書くのではなくて、書いているうちに自分の考え方がはっきりしたという部分がかならずあると思います。ましてや脚本を書く場合には、最初に全体を見渡すなんてつくり方はしてはいけない。一つひとつのシーンを描いているうちに、無意識の部分――自分のなかで知的に把握できなかった部分まで把握できるようになるのです。「なぜだかわからないけれど、このセリフのあとにこういうシーンがくると、すごくいい気持ちだ」というのがだいじなんです。

 箱書きでは、そんな展開はありえません。ひとつのシーンがどんなセリフで終わるのかなんてことまでは、浮かんでこない。しかし、ひとつのシーンずつ考えてゆくと、「えっ、自分はこんなことを考えていたのか」という、思いもかけない展開があったりします。そうした流れのなかで次の展開が無理なく自然に生まれてくるなら、そういうつくり方がいちばんいい。そうしてできあがった作品は、自分の想いだけでつくったものではなくて、現代を生きるみなさんの想いを自分をとおして表現しているのだと思えてくるのです。これは私の勝手な思い込みかもしれませんが…(笑)。

 全体は個の合成だと思っている人がいます。箱書きというのはまさに個を合成して全体をつくりあげる方法ですが、ドラマは、個が集まって成り立っているのではありません。個が集まって全体になるのなら、個の欠点を直せば全体がよくなるはずです。へたな批評家がよく、「あの部分を直せばよくなったのに」と言いますね。しかし、個の欠点を直すと、ドラマ全体が変わってしまうのです。つづく 

 

 以上、冊子「物語のできるまで」より引用。