テレビ『眠れる森』(1998)は全11回かけて謎を解くミステリードラマとして、当時大きな話題を呼んだ。かつての大映ドラマや近い時期の『家なき子2』(1995)など数か月の放送期間を経て犯人を突きとめるスタイルはあったが、謎解きを前面に謳うのは画期的だったかもしれない。この作品について、筆者にはある痛ましい記憶が残っている。
『眠れる森』のシナリオ集(幻冬舎文庫)には、脚本の野沢尚による創作日誌が掲載されている。放送が始まった直後の野沢は高揚していて、そのありさまは野沢作品に多数触れた筆者ですらも読んでいてやや辟易しないでもない。だが先日亡くなった演出家の生野慈朗もかつて「連ドラの世界っていうのは独特で、3ヶ月かけて10時間から11時間のドラマを作る(…)今の時間をかけぬけるみたいな、きわどい感じがたまらないですね」(「キネマ旬報」2009年2月上旬号)と話しており、放送中の制作者が躁転してしまうのは奇矯なことでも何でもないのかもしれない。ただし、その精神状態に足をすくわれることもある。
話題作の『眠れる森』には当然さまざまな反応が寄せられたが、創作日誌によればある評論家は激烈に批判したという。怒りに駆られた野沢が手紙を書くと、その評論家から電話がかかってきて「白熱」の議論をした。日誌はまだ放送中の段階で終わる。
やがて放送が終わる直前に、くだんの評論家・麻生千晶は月刊誌上で攻撃を仕掛けてきた。
「私は一カ月ほど前に面白い体験をした。脚本家のA(引用者註:野沢)氏から分厚い速達をもらったのである。『眠れる森』は木村拓哉、中山美穂が主演、十五年前に次女(中山)を残して惨殺された事件の真相を解き明かしてゆく物語である。
私が批評を書いているある週刊誌に、『眠れる森』を取り上げたところ、月曜発売の火曜朝に、A氏からの手紙がもう飛んで来た。ワープロかパソコン打ちの活字が五枚ぎっしり。批判的な言辞に対する抗議文である。自分の作品は可愛い子供同然なので、批判されれば頭にくるだろうし、作り手側の論理もあるだろうから、抗議自体は当然のことである」(「新潮45」1999年1月号)
野沢の主張は麻生が第2話までしか「見ないで批評文を書いたこと」を問題視して「ミステリー小説を最後まで読まずに批評なんか書けないと思うから、テレビドラマもミステリーなら終わりまで見てから取り上げろ」というものだった。麻生は「一応筋の通った反論である」と評する。
「ミステリー小説でも、最初の出だしでつまらなければ読み続けないことはあるし、途中で放棄するのも一つの評価である。ましてテレビドラマは一回一回が完結して批評の対象足り得る。二回だけと断った評価をくだして何ら非難される筋合いはない。二回見て、「分かった、こいつはパッチワーク的ドラマだ」と見限られるのは、作り手に力量がないからである。
事実、A(引用者註:野沢)氏が提案したようにその後も見続けているが、『眠れる森』に対する点数は初回、二回の印象と変わっていない。むしろ、無理やりでっちあげた作為は増幅し、ますますパソコン・ゲーム化している」(「新潮45」)
麻生の「パソコン・ゲーム化している」などといった評言のつまらなさに筆者は反撥を感じるけれども、しかしその部分は問題ではない。
手紙の中で野沢は同時期の連続ドラマを名指しで非難していた、という。「ここで何が驚いたといって、売れっ子脚本家が別の脚本家をこきおろすエネルギーである」と麻生は野沢の物言いを暴露。かつて野沢作品に出演した経験のある若い役者も貶されていたそうで、筆者は信じられない思いだった。野沢はたしかに『映画館に、日本映画があった頃』(キネマ旬報社)にて他の映画・ドラマに批判的に言及していたこともあり、ライバルに負けていないという自負の表明だったのかもしれないが…。
寄稿の中盤以降で麻生は他の脚本家や賞、倉本聰などテレビ業界に対して総花的?に苦言を呈する。つまり麻生にとって、野沢との論争など話のまくらに過ぎなかった。後半では「A氏は(場当たり的に展開させるのでなく)最終回までのストーリーをきちっと作る創作スタイルをとっているそうであるから、これは立派である」などと一応は野沢をフォローするかのような姿勢も見せている。
野沢は「新潮45」の次号(1999年2月号)に「実作者と批評家との「暗くて深い溝」」と題した反論を寄せた。いや、反論というより「暗くて深い」失望の吐露と言うべきものであった。(つづく)