私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

水谷豊と萩原健一・『傷だらけの天使』以後のふたり

f:id:namerukarada:20150119013959j:plain

 この数年来、『相棒』シリーズ(2000〜)の現場での主演・水谷豊の独裁ぶりが報じられてきた。そんな報道もあって、最近の水谷はすっかり『相棒』のイメージに染まってしまったけれども、以前にも映画『青春の殺人者』(1976)、テレビ『男たちの旅路』(1976〜1982)や『熱中時代』(1978〜1989)などの代表作がある。殊にいまだに人気のあるのが萩原健一主演の『傷だらけの天使』(1974)であり、水谷はその “相棒” 役を好演(水谷の起用は、萩原の希望によるものだったという)。

 現在、『相棒』では天皇と呼ばれる水谷とは対照的に、2004年に恐喝事件を起こした萩原は活動の縮小に追い込まれている。水谷と萩原は、ひとりが脚光を浴びるとひとりは髀肉の嘆をかこうという関係にある…。

 『傷だらけの天使』以後、萩原はテレビ『前略おふくろ様』(1975)や黒澤明監督の映画『影武者』(1980)、水谷はテレビ『熱中時代』のヒットなど、双方が順風満帆にキャリアを重ねているかに見えた。そんな折りの1983年、萩原が大麻所持で逮捕される。翌84年、今度は飲酒運転で検挙。一方の水谷は、『事件記者チャボ』(1983)など、日本テレビの連続ドラマ主演をつづけていた。

 1990年代になると、情況は大きく変わる。映画『青春の蹉跌』(1974)などの役柄や大麻などでアウトローのイメージが強かった萩原健一は、90年代に役柄を転換。テレビ『課長サンの厄年』(1993)や『外科医柊又三郎』(1995)、映画『居酒屋ゆうれい』(1994)などのヒットを連発した。反逆児から穏健でちょっと三枚目の入った中間管理職へ、鮮やかなシフトチェンジをアピール。かつては “狂犬” だったが丸くなったのだと印象づけた。

 萩原は、『課長サンの厄年』にて主人公の課長が若い女子社員にも丁寧な言葉遣いをして世間のおじさん層に影響を与えたが、それは自分の発案だったと豪語している(萩原健一・絓秀実『日本映画[監督・俳優]論』〈ワニブックス新書〉)。その後、大河ドラマ元禄繚乱』(1999)では徳川綱吉役をエキセントリックに怪演し、新境地を開く。『元禄繚乱』の主演俳優・中村勘三郎と脚本の中島丈博とは当時確執があったらしいが、その中島も萩原には満足しているようだった(「スタジオ・ボイス」2000年8月号)。

 90年代、水谷豊の仕事の大半は2時間ドラマの主演であった(プラス連続ドラマの主演が数本)。かつてのヒットシリーズであった『熱中時代』は1989年のスペシャル版をもって完結(この終了は、水谷のキャリアにおいてある象徴だったかもしれない)。メインワークの2時間ドラマはたしかに堅実なビジネスであり、水谷にとってその後のヒントになるようなひらめきが潜んでいたかもしれないが、脚光を浴びるようなことは少ない。萩原のように準主役や脇で目立つというのも水谷には不得手であったのか、三番手、四番手に回ることもなかった。映画は『逃がれの街』(1983)以来、2008年に『相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン』にて主演するまで途絶える(「映画秘宝」2008年6月号などインタビューをいくつか読んでも、25年も映画に出なかった理由は詳らかではない。ただめぐり合わせが悪く、注文も少なかっただけなのか)。

 筆者は『相棒 -劇場版-』のころにようやく『相棒』のテレビシリーズを見始めたのだが、ふと思ったことが、『相棒』以前に水谷を意識したのは『刑事貴族』(1991)くらいで、あまりイメージが湧かないということだった(『青春の殺人者』や『男たちの旅路』は後追いで見たけれども、やはり過去の作品という印象である)。筆者の世代が物心つくようになった90年代は、水谷にとって停滞の時代であった。 

 

 90年代の初頭、萩原健一と水谷豊がアクション映画で久々に共演する企画が持ち上がっていた。監督は、『傷だらけの天使』にて2話分を演出した巨匠・深作欣二。のちに小説家としても名を成した脚本家の野沢尚が、オリジナルシナリオを執筆。脚本は1991年に完成しており、『傷だらけの天使』の主演 × 監督のトリオと『傷天』を見て育った世代の俊英ライターが組む夢の顔合わせであったけれども、陽の目を見ることはなかった。

 深作は癌との闘病の末、2003年に逝去。翌2004年、実現を切望していた野沢も哀しい最期を遂げた。

 

 2000年に土曜ワイド劇場の2時間ドラマとしてスタートした水谷豊の新シリーズ『相棒』は、好評を受けて2002年から連続ドラマ化された。初期は裏番組に押され気味だったが、その濃厚な出来映えから『相棒』は徐々に話題を集める。水谷は、インテリの変人刑事という新しいヒーロー像を獲得。萩原健一より10年遅れをとったが、水谷も年齢を重ねて新境地を開いたのだった。

 他方で萩原は2004年に交通事故を起こし、その直後に恐喝の容疑で逮捕される(映画の現場でトラブルを起こして降板した上、暴力団の名を出してプロデューサーを電話で恐喝したのだという)。執行猶予で実刑を免れたとは言え、萩原の仕事は激減。映画やテレビからは、ほぼ閉め出される形となった。 

 『ショーケン』(講談社)などによると、『課長サンの厄年』や『居酒屋ゆうれい』でも、温厚な役どころを演じつつも気性の激しい萩原健一は現場で揉めていたらしい。歳月を経ても、彼の本質は何ら変わっていなかったのであろう。うまく歳をとれなかった悲哀を感じさせた。

 2000年代後半、『傷だらけの天使』にて8話分のシナリオを執筆した脚本家・市川森一の主導で、萩原と水谷共演の『傷天』リメイク映画化が始動。かつて90年代に深作監督 × 野沢脚本でふたりの共演を企画した奥山和由がプロデュースすることが、非公式ながら発表された。2009年のインタビューで、萩原は言う。

 

「(『傷だらけの天使』の復活に)一番ノってるのが市川さんですね。ただ、ここまできたら焦ることもねえだろう、と(…)まあ、みなさんも焦らずにね(笑)、気長に待っててください」(「刑事マガジン」Vol.8)

 萩原の逮捕時に、ワイドショーのコメンテーターをしていた市川はドライな口ぶりだった記憶があるが、実際には復帰に尽力していたようである。そして2009年末のテレビ番組(『芸能人の告白 特別編』)では、水谷が『相棒』の主人公ふうの口調で萩原への応援メッセージを寄せていた。

 2011年、市川森一はラジオ『爆笑問題の日曜サンデー』に出演し、最近萩原と水谷が『傷だらけの天使』以来の再会を果たしたことを話した。番組が終わってからふたりは会わず、電話1本もせず、「それがダンディズム」だったのだろうけれども、「もういいんじゃない?」という感じで「ふたりだけで店借り切って、飯食ったんですね」。「いい夜だった」そうだが、この会食は『傷だらけの天使』のコンビ復活に向けての決起だったのかもしれない。

 だが同年の暮れ、末期癌が見つかった市川は急逝。それゆえ、市川が中心になって進めていた『傷天』映画化のプロジェクトは、頓挫してしまったらしい。

 

 さらに月日は流れ、水谷豊の『相棒』は変わらず継続し、水谷のワンマンぶりが度々報じられる。萩原健一の隠遁?状態もつづく。このふたりは共存共栄ということがなく、奇妙にすれ違いつづける宿命にあるのだろうか。

 改めて再放送などで『傷だらけの天使』を見ると、別人のように若々しいふたりが跳躍している。積み重なった歳月の重さに、筆者は思わず立ち尽くす…。

(水谷豊との再共演の機会のないまま、2019年3月に萩原健一は死去した。) 

 

【関連記事】愛の意味を考えてみた?・萩原健一主演『離婚しない女』