私の中の見えない炎

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竹下景子 × 森本レオ × 堀川とんこう × 工藤英博 × 鈴木嘉一 トークショー “制作者が読み解く市川森一の魅力” レポート・『傷だらけの天使』(3)

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【『傷だらけの天使』(2)】

鈴木「『傷だらけの天使』(1974)は『黄色い涙』(1974)と対照的で、よく同じ作者が同じ時代に書いたなと思うんですが」

工藤「『傷だらけの天使』は2クール目から視聴率が上がってきましたけど、最初は低視聴率。土曜の夜10時、エログロナンセンスができる時間にテレビを演出したことのない深作(深作欣二)さん、工藤栄一さん、恩地(恩地日出夫)さん、神代(神代辰巳)さん。かなり好き勝手やってましたね。

 市川さんが町田に家を建てて、ローンが始まって、『傷だらけの天使』はいつ打ち切りになるか判らない。視聴率はシングルで。何かNHKの番組をって聞いたような気がします。同時に書いてたんじゃないかな。大変忙しくされてました。にもかかわらず清水プロデューサーとショーケンと市川さんとぼくは、毎晩のように夜を徹して議論してました。市川さんは後で他の番組の悪口ばっかりだったと言ってましたけど(笑)、あのころはいろいろ頑張ってたのかな。

 過激なシーンがありましたでしょう。市川さんは国際放映で深作さんに初めて会って渡して、深作さんがどういうリアクションを示すか緊張して。開口一番、“シナリオに文句はあるんだけど、あなたのシナリオにはハートがある。ぼくはあなたのハートをよりどころにして、グリム童話のようにメルヘンチックなタッチでつくりたい”と。予想外の言葉で、市川さんは驚いてました」

鈴木「あれでメルヘンタッチですか(笑)」

工藤「深作さん一流のリアリズムでつくるんだろうと思ったら、あにはからんや、そう言ったので市川さんが見てみたら、何のことはない、深作バイオレンスじゃないかと思ったそうですけど、2〜3回見てみると確かに…。雷門から仲見世のシーンは日数かけて交通もストップしてやったんですけど、雨も降ってないのに道を濡らしたり努力して、メルヘンタッチを一応やってるんだと感心したって述懐してました」

鈴木室田日出男さんの殺し屋のあたりは『仁義なき戦い』(1972)ですね」

工藤「カメラマンは木村大作さん。いまは大変な人ですけど、当時は新人で頑固。浅草ロケで深作さんと揉めちゃって、カメラポジションが違って、普通なら若い人が譲るけど譲らなかった。結局深作さんが折れて、オールラッシュを見たら映像が素晴らしいから、深作さんが笑顔で“ぼくは甲を脱ぎました”って言って以後はコンビを組んだそうです。

 室田日出男は深作さんがかわいがってて、川谷拓三とか志賀勝とかのピラニア軍団のリーダーでした。人に紹介するときには“こいつは要領が悪くて、高倉健菅原文太になれなかった室田日出男です”って紹介してたと。最初深作さんは(馴染みの)カメラマンを連れて来たかったんですね。だけど東宝のスタッフを使うということだったんで、木村さんも恩地さんのカメラマンで。東宝のスタッフでって言ったら、深作さんは不承不承、代わりにやくざの役は室田にやらせてほしいと、交換条件で成立したという」

竹下「市川さんのホンにセンチメンタルな部分があると、どういうところを深作監督は読まれたと工藤さんは思われますか」

工藤「後半ですね。そう言われて市川さんも意表を突かれたとびっくりして、人情とかしがらみとかも含めてと思いますが」

竹下「設定の奇抜さとか斬新なものもありますけど、メランコリックな世界というのも持ってらした気がしますね」

鈴木「タイトルバックにこのドラマのめちゃくちゃさがいい意味で出ている気がします」

工藤「タイトルバックはイラストでつくる話があったんですが、日テレのほうから急遽だと言われて、撮影に入る前に撮っちゃおうと。恩地組だったんですが。萩原健一はクリエイティブの才能を持った人で、『約束』(1972)では彼はサード助監督だったんです。(予定されていた)中山仁さんが赤毛物の舞台で出られない、女優さんにも断られて決まらない。ダメもとでパリの岸惠子さんにオファーしてみたら、相手役の俳優さんだけ知らせてって言われて。斉藤耕一監督がどうせダメなんだからお前の写真送れって言って、ネクタイ締めて撮って送ったら、岸さんが会いたいと。それで俳優の道が開けたという」

鈴木「脚本家のうちメインライターの市川さんがいちばん多くて8本。ただ第1話は『三匹の侍』(1963)などの柴英三郎さんです」

工藤「市川さんは“これは気鋭の若いつくり手が集まった実験劇場だ”とおっしゃってたんです。既成の方じゃなくて若い人で構築したいというのがあったのですが、上層部は最初のほうだけは安定した人で押さえなきゃダメだということで、柴英三郎さんや大野靖子さんにお願いしました。あとは若い人、鎌田敏夫さんも新人のころですね。統一した設定はなくて、共通のコンセプトを持つ余裕がない。大まかなくくりはありましたけど、そこそこの視聴率があれば何やってもいいみたいな。放送順を決めたのは上の人ですね。私たちは過激なところからスタートしたかったんですが、上層部としてはマイルドなものからということで(笑)」(つづく)