私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

評伝 山田太一の生涯(1934-2023)

【青年時代】

 1934年、浅草の食堂を営む庶民的な家族のもとに山田太一は生まれた。父と後妻とが対立するなど荒んだ家族から脱出して大学に進学した山田は、孤独に読書に耽った。同期の寺山修司とは頻繁に会って手紙を出し合うなど密に交流し、クラスメートと旅行を愉しむこともあったが、徒党を組むのは拒否(若き日の過ごし方は、後年の仕事のスタイルにも影響したであろう)。若さに任せて浮かれない分別は既にあり、学生時代は充実していたとのちに語る。

 山田は在学中に月刊誌に短編小説を送って入選していて、専業作家になることを思い描きながらも、生活を重視して就職。高い倍率を突破して松竹撮影所に入社した山田は、現場で助監督を務めながらシナリオの才が社内で認められて、『明日はいっぱいの果実』(1960)などの映画脚本を執筆。撮影所での日々は愉しかったが、学生時代に親しかった寺山修司が文化人として早くも出世していくのに悲哀を感じてもいた。

 

【シナリオ作家へ】

 松竹のエース格・木下惠介監督に目をかけられた山田は、しかし木下に不出来な形で自分のシナリオを映像化されると真っ向から反撥。脚本を執筆しつつ映画監督になりたい気持ちはあったが、同期の前田陽一が先に監督に昇進してショックを受ける。

 やがて映画を撮りにくくなった木下がテレビ界に進出するのと行動をともにし、1965年に松竹を退社。テレビ業界で生きようと決意を固めた。木下のもとで窮屈さを感じながら山田は作品を量産。『女と刀』(1967)の脚色を手がけ、時代の変化に逆らって個を貫く主人公像に啓示のようなものを感じた。

【訪れた転機】

 木下惠介は「太一ほど頭のいい脚本家はいませんよ」と山田を重用。朝ドラ『藍より青く』(1972)などをヒットさせた山田は木下のもとにいる気鋭の作家として知名度を高めた。映画『愛と死』(1971)では「人を好きになるということは他の誰かを排除することだ」という意味の台詞に関して松竹の城戸四郎社長にクレームをつけられると、社長室で堂々と反論するなど破天荒な行動もとった。やがて木下は山田に自由に企画を出してよいと告げ、山田はあたためていた辛口ホームドラマ『それぞれの秋』(1973)を発表。諍いがあっても和気藹々とした家族像が主流の時代に、表面上は穏やかでも秘密を抱えた親子を描いた。 

 『それぞれ』の2年後の『旅への誘い』(1975)は、10年以上に渡って木下のもとで圧迫を感じながら執筆してきた山田が、あえて不思議なストーリー展開にすることによって木下に対してもう限界だと作中で思い切って発信したドラマだった。近い時期にNHKでトラブルになった倉本聰は業界批判のメッセージを込めた異色作『6羽のかもめ』(1974)を発表。山田と倉本は同時期に、内実は全く異なるとはいえメッセージ的な作品を手がけ、大きな転機を迎えたことになる。

 倉本の告発は物議を醸し、 “NHKドラマオイルショック” と呼ばれる一大事変であった。一大決心をして師匠の木下から独立した山田へ、倉本とのトラブルによって揺れるNHKから依頼が舞い込む。それはマイナスイメージ払拭のためにシナリオ作家主体で制作したいという申し出だった。期待に応えて山田は『男たちの旅路』シリーズを送り出し、注目を集める。山田と倉本の運命が符合した瞬間だった。

【栄華 やりたいものをどうぞ】

 山田が『女と刀』のヒロイン像をさらに活かし、戦時の記憶を忘れないで繁栄を享受しない男が主人公の『男たちの旅路』シリーズは人気を集める。『それぞれの秋』を発展させて中流家庭をセンセーショナルかつ細やかに描いた辛口ホームドラマの決定版『岸辺のアルバム』(1977)も高い評価を得た。山田や倉本の活躍に加えて、70年代にメッセージ性の強い作品がブームだったこともあり、シナリオ作家がドラマのリーダー的な存在感を示す時代が到来したのだった。

 当時勢いに乗っていたフジテレビにいまいちばんやりたいものをやってほしい、という依頼を受け、山田は代表作となる『早春スケッチブック』(1983)で応じた。NHKに石油や石炭などエネルギーを通じて近代化を描きたいとオファーされた際、山田は近代を描くならばラフカディオ・ハーンがいいと逆提案し、『日本の面影』(1984)を発表。ちなみに倉本はアメリカ映画『アドベンチャー・ファミリー』(1975)の日本版を制作しようとオファーされ、企画を完全につくり変えて、『北の国から』(1981)を送り出してヒットさせる(同じ時間帯に山田の『想い出づくり』〈1981〉も放送された)。

 山田は、やりたいものを自由にやってほしいと請われる地位を遂に確立したのだった。孤高で台詞に厳しい山田は現場に顔を出さないながらも、強面の演出家より怖いと若い俳優たちから畏れられた。

 文化人として知られるようになった山田はエッセイも発表し、インタビューや対談など作品以外のメディア露出も急増。木村晃治『人物書誌大系 山田太一』(日外アソシエ-ツ)を概観すると、おそらく週1回は何らかの媒体に登場していたようである。

バブル経済の中での後退】

 80年代末期になると若手作家の台頭が始まり、ベテランになった山田の立場は苦しくなってきた。テレビ局では若い作家志望者に「山田さんや倉本さんがいいなんて言ってるようではプロになれない」と指導されるようになり、大物プロデューサーが山田ではダメだとメディア上で公然と非難。評価の高まった山田に対して、反動のように風当たりが強くなった。

 80年代から小説を執筆していた山田は『異人たちとの夏』(新潮文庫)により山本周五郎賞を受賞し、90年代から2000年代前半に戯曲・小説への比重を特に強めた。連続ドラマから撤退して、地道にコンスタントな仕事を重ねたが商業的な成功は減じている。『秋の一族』(1994)や『夏の一族』(1995)などでは胸中の反映なのか、リストラされたり左遷されたり中高年男性の逆境が繰り返し描かれた。この時期には山田が頻繁に仕事をしたTBSやフジテレビに代わって、かつて関わりの少なかったテレビ東京テレビ朝日が間隙を狙うように山田と組んでいる。

【21世紀のルネッサンス

 2008年に山田は、アメリカで成功した渡辺謙が久々に日本で主演する『星ひとつの夜』の脚本を担当。翌年には久々の連続ドラマ『ありふれた奇跡』(2009)にも登板した。岡田惠和原恵一是枝裕和など気鋭の現役クリエイターたちが続々と山田支持を表明。潮目は大きく変わり、山田のルネッサンスを思わせた。

 山田は次世代が出てくるときには独自性を主張するために前の世代を否定するものだと評していて、バブル期から2000年代前半にかけて自身の注目度が低かったことに関しての分析ではないかと想像される。また長く塾を主催してシナリオ作家を育ててきた倉本聰に対して山田は後進に関心がなさそうだったが、現状では若い作家が出てきにくいと積極的に若手を応援するようにもなってきた。

 大きな事件を描くのは避けることが多かった山田は、珍しく『時は立ちどまらない』(2014)では東日本大震災を扱っている。同作では動画サイトやSNSが流行し始めた時代にそれらとは異なるフィクションの有効性を真っ向から主張し、大きな反響を呼ぶ。姉妹編的な『五年目のひとり』(2016)は、悲しみを忘れて明るく元気になろうとする風潮に警鐘を鳴らした。山田の挑戦的な姿勢は老境に至っても変わらなかったが、2017年に体調を崩し、2023年に逝去した。