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対談 山田太一 × 宗雪雅幸 “日本人が失ってきたもの。これから培っていくべきもの”(1992)(1)

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 脚本家の山田太一先生が、富士写真フイルムの宗雪雅幸・専務取締役と対談した記事を入手した(「FGひろば」Vol.81)。「新春特別対談」と銘打っているものの、当然ながら対談は前年(1992年)の末に行われたとおぼしい。そこで標題は1992年のものということにした(文中では92年を「昨年」と言ったかと思えば、93年を「来年」と言っており紛らわしい)。明らかな誤字は訂正し、用字・用語は可能な範囲で統一した。

 

宗雪 私は昭和三十四年に学校を出まして、富士フイルムへ入社したのですが、入った年にすぐ入社研修というのがございまして、みんなで松竹大船撮影所におじゃましたことがあるんです。山田さんも松竹の大船におられたと伺ったのですが。

 

山田 私も三十三年入社ですので、その頃は助監督として撮影所を駆け回っていたはずです。

 

宗雪 当時はどんな監督さんに付いておられたのですか。

 

山田 新人の頃はぐるぐる回されますので、いろいろな監督さんに付きましたが、だんだん絞られていってからは篠田正浩さんのところに付くようになって、四年ぐらい経ったときから木下惠介さんの組へ付くようになりました。それから退社するまでは木下さんのところにおりました。

 

宗雪 その当時に、いまのシナリオライターの基礎みたいなものを学ばれたのでしょうか。

 

山田 社長が城戸四郎さんという方で、「助監督といったって、脚本が書けなきゃ監督にしないぞ」と言うわけです。あの頃は結構就職難でして、どこか引っかかったところへ入れればいいという感じで映画会社に入ったので、僕は入社するまで脚本なんか書いたことも、読んだこともなかったんです。社長の方針からか、当時、会社にはシナリオが取ることができるように置いてあったので、入社してすぐそれを何冊も持ち出しまして、家に帰ってどういうふうに書くものかと思いながら随分読んだことは読みました。でも、実際には当時は徹夜徹夜の仕事でして、スタジオの撮影が深夜に終わって、それからすぐバスに乗ってロケーションに出ていって、バスの中で眠るという感じでしたので、数はそんなに書けませんでしたね。

 

宗雪 そうやって七年間、撮影所におられて、その後、テレビのお仕事の方へ変わられたのですか。

 

山田 直接的には、木下惠介さんがTBSで「木下惠介劇場」という番組をやるというお話があって、それに誘われたのがきっかけなんです。木下さんは映画はだんだん傾いてくるとお思いになっていたんでしょう、「自分は少しテレビに進出しようと思う。君も手伝え」と言われたんですね。テレビ局なんかに行くときも巨匠ともなると、お一人で歩かれることがないので、私はカバン持ちで付いて歩くんです。それでTBSで演出なさるとか、名古屋のCBCで演出なさるというと僕が付いていって、巨匠に直接言い難いようなことは皆さんが僕に言ってから、僕が巨匠に言うというようなことをしていて、それで随分テレビを覚えたんですね。

 

宗雪 それが今日のすばらしいテレビドラマを生む基礎になったんですね。

 

山田 木下さんは一週間に一本という枠を引き受けてしまわれたものですから、脚本が大変多忙になりまして、「君書け、書け」と言うんです。それで僕も給料が安かったものですから書かせていただく。その脚本料も高いとは言えませんが、数を書けばプラスになります。それでだんだんそんなことしているんだったら、もう助監督やめちゃった方がいいんじゃないかと思えてきまして、やめてしまったんです。

 

宗雪 私は笠智衆さんが大好きなのですが、笠さんも確か松竹の大船にいらしたんですよね。

 

山田 ええ、仰ぎ見る先輩です。俳優さんと助監督ですから、俳優さんが笠さんを仰ぎ見るのとはちょっと立場が違うかもしれませんけれども、それでも大先輩ですので、笠さんの前に行くといまでもなんだか緊張します。

 

宗雪 笠さんのご本を読むと、自分はとてもぶきっちょで、小津安二郎さんに何十回も直されたという話も書いておられますが、むしろ不器用の素晴らしさみたいなものを感じることがありますね。

 

山田 そうですね。笠さんが小器用だったらつまらないですよ。やっぱり表現なさらないんで、見ている側は見ている側はそこから物凄くいろいろなものを想像してしまう。俳句みたいなもので…(笑)。

 

宗雪 そういう点で、素晴らしい日本人だと思いますね。

 

山田 ふと、我々の世代が戦前までの文化をかなり壊してしまったのではないかと思うことがあるんです。世代が主体的にすべてをコントロールすることはできませんから、もちろんそれは大きな時の流れですけれども、日本人のたたずまいというのでしょうか、背広を着るときでも大正時代頃の人はソフト帽をかぶったりして非常にうまく着こなしているんですね。そういうところでも、ドラマなんかで、たたずまいの美しさを描くのが非常に難しくなりました。みんな姿勢だって猫背になっていますでしょう。これじゃたたずまいの美しさというわけにもいきませんものね。

 以上、「FGひろば」Vol.81より引用。(つづく) 

 

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