女子高生の主人公(星輝美)は若い男女のグループ・六本木族に入り、ジャズ奏者(藤木孝)と出会って惹かれた。そしてメンバーみなで葉山の別荘へ行くが、老女をひき殺してしまう。グループのリーダー(松原緑郎)は、ジャズ奏者に罪をなすりつけた。
テレビ『コメットさん』(1968)や『帰ってきたウルトラマン』(1971)の演出、冤罪支援などで知られる山際永三監督のデビュー映画が『狂熱の果て』(1961)。『太陽の季節』(1956)などの流れをくんだとおぼしき青春サスペンスの異色作で、後年の山際作品を見ていると意外にも感じるが、さまざまな意味で面白い。
2月に渋谷にて、山際監督と出演の星輝美・藤木孝両氏のトークショーがあった。聞き手は、『異端の映画史 新東宝の世界』(洋泉社)の下村健氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
監督 山際永三、大いに語る;映画『狂熱の果て』から「オウム事件」まで
- 作者: 山際永三、内藤誠、内藤研
- 出版社/メーカー: 彩流社
- 発売日: 2018/09/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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藤木「きょうはこんなにたくさんの方に『狂熱の果て』を見ていただいて、嬉しいです。ありがとうございます(拍手)。
この作品が初めての演技の場だったんです。そのころぼくは歌手でして、ロックンロールとかブルースを唄っていたんですが、何故かお誘いを受けて、この映画に出ることになりました。もともとお芝居や映画を見たりするのは好きだったんですけど、演技の下地は何もないまま、この作品に突入いたしました。カチンコが鳴って芝居を始めるということも知らない状態で。きょうはなつかしいやらはずかしいやら、いろんな気持ちが交錯しています。出来の悪い息子と生き別れて、50年後にめぐり会ったようなそんな気分でございます」
星「藤木さんのように上手に説明できないんですが(笑)、お久しぶりという感覚です。歳をとりまして。大学に行かなかったんですが、大学より財産だったと思っております」
山際「いまから50年以上前の、自分がつくった映画です。この作品は一時期どこ行っちゃったか判らなくて、それがひょんなことから見つかって、いまは国立映画アーカイブに寄贈されています。
自分としては、会社がつぶれるときの騒ぎの中でつくったようなもので、完成試写もやったかどうか。できた途端に上映で、上映はどこでやってるかと思ったら、もう東京でやってないとか。はずかしいような、そういう映画です。ぼくはその後すぐテレビ映画の世界に行っちゃって、棄てられたかと思ったら出てきたという不思議な運命です。藤木さんの言われるように、孤児にめぐり会った感じです」
【企画・準備段階 (1)】
山際「いま見ると、古い撮影所のシステムの中でつくったもので、予算の少ない貧乏くさい映画です。ぼくは6年間、新東宝で助監督をやってまして、その間に気づいたことをこの映画に入れた。1960年代の若者、映画青年はこんなことを考えたというか、必死になってやってあの程度だったんだなというのが印象です。
(企画の発端は)当時テレビができたばっかりで、渡辺プロの渡辺美佐さんが六本木族をつくり上げて、それを映画やテレビに売り込みたいというお話でした。それで、秋本まさみさんが書いていたんですね。ときどき(役者として)出ていた人なんですが、原作ということになって。
脚本は山田健さんという、ぼくより1、2年後に入った人とでやることになったんですが、山田健みたいな女たらしと山際みたいな真面目な奴とでどうしていっしょにやるんだと言われました」
藤木「ふたつのよさが、この映画にはありますね」
山際「原作は体験談の手記みたいなので、ぼくの家にも残ってないので、多分出版されなかったんじゃないかな健さんとぼくとで、でっち上げてしまってという。秋本さんは、家出して泊まるブティックの人の役で出ていますね」
星「秋本さんは野獣会というのの親分だったんですね(笑)。そのころの六本木は、いまと違って何にもなくて」
藤木「そもそも秋本さんは、ぼくの姉の友だちなんです(一同笑)。ぼくも姉も玉川学園出身なんですけど、秋本さんは姉と同学年でした。演劇もさかんで、秋本さんは演劇部のスターでした。ぼくは美術部にいたり、音楽部で歌ったりしてましたけど、演劇とは縁がなかった。演技は『狂熱の果て』が初めてで、歳はぼくのほうが上ですけど、星さんは先輩にあたるわけです。必死にやった覚えがあります」(つづく)