【養成所と日活時代の想い出 (2)】
渡辺「ほとんどの作品を忘れてるんで、いくつかDVDを送っていただいて見たんですけど。私は東京に生まれてごく普通の家に育った末っ子で、何と言うこともなく育ったんですね。ひょんなことから養成所に入っちゃって、初舞台が済んだくらいでもう映画の仕事が始まって。どの役も普通の女の子じゃないんですね。ひがんでたり拗ねてたり、どうしてああいう役ばっかり(一同笑)。にっこり笑っておはようございますなんてのはやったためしがない。石原裕次郎さんたちが出てくると女の役がなくなっちゃって、敵役の情婦とかお妾さんとかバーのマダム(笑)」
松岡「中平康さんの『四季の愛欲』(1958)もすごかったですけど」
渡辺「覚えてない(一同笑)」
松岡「『真田風雲録』(1963)では美佐子さんが馬から落ちるところが危険ですね。合成やCGじゃなく実際にやっていらっしゃる。『アカシアの道』(2001)でも首を絞められて橋から落ちそうになるのも、引きで撮ってるので欄干のところで養生とかはしていません。それが鶴見川の橋で、美佐子さんは『果てしなき欲望』(1958)のときも鶴見川で「どうなるかと思ったわよ」って言われてました」
渡辺「何遍か大変な思いをしました。『真田風雲録』は加藤泰さんっていう面白い監督さんで、最初(原作)は福田善之さんの舞台でした。新劇は難しい舞台が多かったんですけど、お客さんが手を叩いてくれて、時代劇なんですけど俳優たちが舞台でツイストを踊るみたいな。中村錦之助さんが京都の公演を見に来てくださって、結婚なさった有馬稲子さんに「あなたもこういうものやらなきゃだめよ」って言われて。それで映画になって錦之助さんが猿飛佐助。私は霧隠才蔵で、馬に乗って敵と戦うシーンで、本番になったら馬が教えられた通りに動かなくて、違う場所で突進してきたんですね。私が敵兵を馬上から落とす設定なのに、私が下敷きになって落ちちゃった。私は動けなくて、加藤監督が「カメラさん、この渡辺さんの顔を早く撮って!」って。私はうなってる顔を撮られてしまって。撮り終わってから監督は「はい渡辺さん、病院に行ってください」(一同笑)」
渡辺「『果てしなき欲望』は今村昌平さんの映画で、私は極めつきの悪女で男どもをなぎ倒して麻薬を抱えて逃げる。ものすごく大きな扇風機を持ち込んで、雨を降らせて巨大な扇風機を回して、私は川の中を逃げるんですけれども転んでしまって。目の前に白いものがぷかぷか浮かんでいて、ねずみがうじがわいて真っ白になって固まってたんですね。私はそのまま気を失って。水の中から引き揚げられて、今平さんが「これ使って」ってハンカチをくださって「ありがとうございます」って顔を拭いて、そしたらいまへいさんが「あ、ごめん。さっきぼくが鼻かんだやつだ」(一同笑)。最後に私が死ぬところは、寸前まで鶴見川であとは日活のプールに橋をつくって。浦山桐郎さんは小柄な方で私と同じ着物を着て、プールに落ちる。私は同じ着物で助監督さんにヒモをつけられて、水に沈められているんです。浦山さんが落ちるのに合わせて助監督さんがヒモをゆるめると、私は浮き上がって息をする。3回やりました。実際に息ができないので苦しい(笑)。
ただ普通の平凡な女の子が不思議な世界に入って、毎日浮き浮きしたっていうか。普通に生活しているんじゃない、次元の違う世界。私は5人兄妹で兄と姉がおりまして、みんながいろんな本を読んでいたんですね。捕物帳も江戸川乱歩も世界名作全集も。私のための本は買ってもらった覚えがなくて、散乱した本を夢中で読んでいたら、その世界に入り込んじゃう。きっとそういうことが、芝居でも映画でもその気になっちゃうということに関係があるのかなという気もしています」
【テレビ黎明期】
渡辺「あんなに映画が花ひらいてた時代、みんなが狂ったように映画を撮ってた時代に過ごせたというのはありがたいですね。
テレビはNHKのテストのドラマにも行ってみたんですけど、スタジオにしるしをつけるんですね。立ちどまって台詞を言うときはここ、とか。カメラさんも自由に動けるわけじゃないし、マイクさんも決まった位置にいるとか制約があって芝居どころじゃない。そういう苦労もあって。いまみたいに労働基準が厳しくなかったんでディレクターさんも徹夜して、しょっちゅういなくなる。どうしていなくなっちゃうのかなって思ったら、ヒロポンを打ってるって。そういう仕事の人はヒロポンを打つのが常識だったんですね(一同笑)。そのくらい過酷でした。
私はTBSの東芝日曜劇場とかにもよく出たんですけど、そのころテレビの人たちは映画に追いつけ追い越せで、台本が三島由紀夫さんや林芙美子さんで、いい台本もいっぱいありました。稽古も1週間ぐらいして、意気込みがすごくよかった。視聴率よりもいいものつくろうってテレビの黎明期も、いい想い出だなっていまは思います。
映画スターさんはテレビにお出にならないし、映画の世界でテレビは電気紙芝居だってバカにされてました。私はTBSとかに行くときに、助監督さんにこっそり頼んで「これからテレビに行きたいんですけど」って。助監督さんは定時に終えさせてくださって「はい、行ってください」ってテレビって口に出さないで私を送り出してくださった。そういう時代でした。
でもテレビは映画と違ってカットが長い。映画は何秒っていう短いカットの積み重なりですけど、テレビは長い間撮りますから、新劇の俳優が重宝がられて大勢出てました。お金がない俳優は助かった」(つづく)