私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(2)

 映画の場合当然だけれども、面白いか面白くないかということで判断するんですね。でも人間の事実の中ですばらしいけど面白くないものってものも、ものすごくあるわけですね。面白くないものは省いてしまう、描写できないってふうになっている。それから、ストーリーを求めるということですね。ストーリーっていうのは、例えばここで僕がこういう話をしますでしょ。そうすると話が非常に断片ばっかりで収拾がつかないまんま終るとね、なんとなく気に入らない。一つのストーリーがあって、起承転結があって流れがあると納得するというかな。そういうふうなストーリー主義からはみでるようなものは駄目である。今の映画というものは大半はそうだと思うんです。そのために事実というものを捉え損なっている。本当の事実というのは普遍性とか共通性とかから離れてしまうものが沢山あるわけですね。

 でも、映画にする場合とか小説にする場合とか、ある事実の中から共通性だけを取り出すわけですね。普遍性だけ取り出すわけです。そうすると、見る人もみんな我が事のように思ったり、納得したりするから、わかったような気になる。実は事実というのは、特殊な事実というのはその人以外には共通性がないような事実もあるわけですね。佐川君という『霧の中』を書いたね、あの、食べちゃった人がいますね、オランダの女性を。あの人のことなんかでも、僕らがああいう小説から読むのもやっぱり共通性ですね、自分の共通性を求めて読みますよね。でも、本当の事実というのは共通性のないところにあるかもわからないですよね。そういうふうな一般性のないという事実はとても嫌われてしまう。それで、みんなにわかりやすいこと、言葉で説明しうるようなもの、そういうようなものだけで世界をつくる、物語をつくる。本当の自分とか、本当の事実というのからどんどん離れてしまって、言葉だけが一人歩きしてしまう。

 そういうふうな知的な分析とか、知的くくり方とかでドラマをつくらなければならないということに、非常に不満があったんですね。なんとかそういうものから逃れられないだろうか。もっと事実をじっと見ると、自分の現実なんか見るとね、人にはちょっと説明しにくいけれどもそれが事実だというのがあるんですね。それは例えば、犯罪者がよく調書というのをとられるんですね。調書をとられて、「お前はこういうことをしたな、こういうことをしたな」。確かにしたんだけれども、それを全部読んで、「だからお前はこういうふうにして誰かを殺したんだな」と言われると、なるほどそうだと思うんだけど、どっか違う。本当はそうじゃないんだけどな。人にはわかってもらえないことがきっと残ると思うんですね。でも、調書というのはどうしても刑事や裁判官や検事などの共通感覚、通念というものでくくられてしまうものばかりで、それ以外の事実というのはどんどんはみ出てしまうんですね。じゃあ、事実というものはどのくらい収めることができるだろうか。映画が駄目だったら何があるだろうかと思ってるときに、段々テレビというのが台頭してきたんですね。

 テレビというのは実にストーリー性を要求しないで、物事を捉えることができるというふうな非常に新鮮なものを感じたんですね。映画だとかなり強烈なストーリーがないと1本の映画にならないけど、テレビの場合は1時間使ってかなり下らないことをやっても成立しうる。では、それはすばらしいジャンルではないかと、少しずつ気がついてきたんですね。僕が割合興味をもつのは、どんどんストーリーを仕組んであるところで使うというよりは、断片として使うという方が使い易いようなものが沢山あるんですね。例えば、電車に乗ってますでしょ。そうすると、何か声聞こえてきたりしますよね。その声の中に、「あのバカ、おれが全員集合見るの知ってて8時になって電話かけてくる」って声が聞こえてくるわけですね。そういうの聞くとすごく面白いんだな。そういうのいろいろ考えてみると、大学生ぐらいの子が全員集合必ず毎週見ててね、その時間に電話がかかってくると腹が立つほど好きだという、そういうことから広げていくことの面白さというかな。

(中略)(つづく 

 

 以上「フェリス・フェスティバル '83」の冊子より引用。 

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