私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(3)

 早春スケッチブック』をご覧になった方には余計なことだけれども、小市民社会、僕も小市民社会の中で臆病に生きている人間ですけれども、そういうところで生きている人間の価値観みたいなものをね、テレビというのは実に批評しないわけですね。テレビを見て下さる方の大半は小市民だから、その人達の哀歓というのかな、悲しさとか喜びとかというものを批評しないことが一応前提となってるということがありますね、テレビドラマというのは。そうすると、お父さんは非常に苦労しているけれども、家族を守って地道に生きているのに何が悪いというところを批評しないわけですね。

 でも、そんな馬鹿な話はないわけで、地道に生きている、会社で上役にすごく怒られたりなんかしながらも、屈辱に耐えて言う通りにして、家へ帰ったら良きお父さんであり、誠実に生きている、何が悪いというふうな次元から出なかったら、社会というのは非常に貧しくなってしまうという気がするんです。例えば、その発想で言えば、アウシュビッツユダヤ人を沢山殺した収容所長、そういう人達だって上役の命令に従って地道に人を殺したわけですね。それで、家へ帰ったら良きパパだったわけですね。そうすると、それが批評されないというのはおかしいのとおんなじで、やはり、社会の中で、会社の中で上役の言うことや屈辱に耐えて、ただ誠実に悪いことをしないで帰ってきて、家で良きパパであればいいというふうな考え方というのはどこかいびつなところがあると…。そういうものを批評する存在が現れて、そしてその現れた存在に対してどのくらい小市民の哲学が対抗できるか、どのくらい強さを持つかということが試されなければいけないんじゃないかという気があったんです。それで、『早春スケッチブック』で、小市民の生活を強烈に批評する存在というのを出そうと思ったんですね。それは、僕はむしろ小市民の側の人間ですから…。でも、内部には多少そういう小市民批評、自己批評というものがあるわけですね。そういう系譜というのはニーチェなんかお読みになるともう一杯出てるわけですね。ニーチェなんていうのは体系的に書いておりませんから、短い文章ですから、どこ開いても面白いですから、お読みになってない方はお読みになるとすごく面白いと思います。どれでもいいからね。ニーチェとかショーペンハウエルとかね、ケルケゴールとかそういう系譜の人達を集めて、集めてっていうのも変だけど。そういう人達の考え方と小市民、アメリカの小市民生活を支えているような哲学と似たようなものですね、今の日本の小市民社会。そういうものがどれくらい対抗しうるかというドラマを書いてみようと思ったんですね。

 それで、小市民を批評しうるような役者というのはいないかな…。そして迫力がなきゃ駄目ですからね。そうすると、いないんですね。実に今の日本の俳優さんの中に。小市民もいないんですね。実に地道に誠実に生きている小市民のお父さんはいないかというふうに考えると、誰を思い浮かべても少しヤクザっぽくていないんですね。それで、河原崎長一郎が唯一ぐらいにね…。実はあの人は実際には呑んだくれで、そんなに小市民的に誠実に、あ、誠実かもわかんないけど、あんまりお行儀のいい方ではないんだけれども。でも、一見するというのかな、非常に真面目そうに見えるんですね。じゃあ、その小市民を批評する側、批評する言葉がいちいち血肉化していくような人っていないかといったら、どう考えても山崎努さんしかいなかったんですね。ま、唯一もう少し年がいけば、三國連太郎さんがいいと思ったんですけどね。でもちょっと年がいきすぎている。それでもう山崎努さんしかいないし、もう山崎努さんが駄目だって言ったら、これは駄目なんだ。勿論、勝新太郎みたいにね、ああいう形で小市民から逸脱している人はいるわけですね。いるんだけれども、勝さんが、例えばニーチェみたいな口利いたって似合わないわけですね。嘘つけ!って感じになるわけですね。ですから、そうじゃなくてある種の知的な支えがあるような感じで、小市民から逸脱しているような人はいないかというと山崎努さんしかいないと思ってね。それで、山崎努さんに会ってみたんですね。

 実はこういうふうな構造でドラマをつくりたいんだが、あなたしかいない。あなたが断ったら僕はこの企画やめちゃうけれども、やる気がないか、というふうに言ったら、すぐその場で「やるやる」って言ってくれてね。それからすぐ、その代わりにすごく批評するぞみたいなことを言うわけね、もっと丁寧な言葉ですけれども…。あの、きちんとした人ですからね。もういくらでも闘争しましょうって言ったんですけど、あの人の「闘争」というのは、本(脚本)について本をどうしろとかああしろとか、こうして欲しいということを一切言わないんですね。僕が書いた本を渡したらそれだけです。ただ、それをどういうふうにやるかということで、つまり、本を凌駕しちゃおうということで…。なんかもう眠れなくて大変だったそうです。本番の前の日は夜中にディレクターやプロデューサーのところへ電話がかかってきて、「明日はこうしたいんだけどどうか?」なんてきくんで、みんな迷惑して大変だったという話を聞きましたけれども…。さすが、やっぱり今脂の乗ってる俳優さんだけあって、かなり僕は、書いた言葉を説得力あるように言えてるというふうに思いましたけれども、どうでしたか?

(中略)(つづく 

 

 以上「フェリス・フェスティバル '83」の冊子より引用。