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満田かずほ × 小中和哉 トークショー レポート・『ダイゴロウ対ゴリアス』(4)

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【戦争について (2)】

 小中氏は、飯島監督の映画『ホームカミング』(2011)では監督補を務めた。

 

小中「『カミング』が飯島監督との出会いですね。もちろんリスペクトはしてましたけど。その以前に書かれた脚本が怪獣映画だったんですよ。おじいちゃんが戦争中の少年時代にタイムスリップして、そこでB29と怪獣が戦う。戦争体験と怪獣映画の合体で、ぼくはそこに特技監督で呼ばれたんです。脚本段階で参加したんですが、お金かかるって話になって企画がシフトして『カミング』になった。

 『ダイゴロウ』と今回の本(『ギブミー・チョコレート』〈KADOKAWA〉→『あの日、ぼくたちは』〈角川文庫〉)とを見ていて、こだわった世界だなと思います。『カミング』は金妻の世代が歳をとってという続編的な作品です。そういう世界もありつつ、ジュブナイルの世界も。『ギブミー』もよくここまで生き生きと書けるなと。すごい記憶力と補完する想像力で、少年時代への思いは強いんですね。『ウルトラマン』(1966)のホシノ少年とか『怪奇大作戦』(1968)の少年とか、そういうのが好きなんだなと。企画書に(少年が)書いてあるから、飯島さんは真面目だから使うというのもあるんでしょうけど」

満田「企画的なことは判らない。ぼくも企画室に集まってはいたけど」 

【平成ウルトラマンの想い出】

 小中氏は映画『ウルトラマンゼアス2』(1997)や『ULTRAMAN』(2004)、テレビ『ウルトラマンダイナ』(1998)や『ウルトラマンネクサス』(2004)など90年代以降のウルトラシリーズに多数参画している。満田氏はプロデューサーを務めた。

 

小中「中学のときにつくった映画は、音楽は『ウルトラQ』(1966)を使って、ナレーションで始まって『ウルトラQ』の1本みたいな。ウルトラ的なものをつくりたいってところから映画を始めたところがあります。

 清(鈴木清)さんと出会って、新ウルトラマンの企画書をまとめる係として『ウルトラマングレート』(1990)の会議に参加しました。初めてやったのは『ゼアス2』で、企画立ち上げのときは『ウルトラマンティガ』(1996)が準備中でした」 

 『ティガ』のヒロイン役・吉本多香美は『ウルトラマン』の主役・黒部進の娘だった。

 

満田「『ゼアス』で吉本多香美がオーディション済みで、鈴木清が『ティガ』のときにいい娘がいますよって売り込んだ。黒部(黒部進)ちゃんの娘でもあるし。後で黒部ちゃんの本(エッセイ)見たら自分がみっちゃんに頼んだって書いてあったけど、そんなことなかった(笑)」

小中「『ティガ』も呼ばれたんですが、同時期に『ゼアス2』があって入れずに『ダイナ』から。満田さんとはそのとき初めてですね。このころも全盛期です。『ウルトラマンガイア』(1998)くらいまではイケイケでした。『電光超人グリッドマン』(1993)で助手だった人が『ティガ』ではメインになって、満田さんの作品を見ていた人たちですね。

 『ティガ』のころに、旧ウルトラの技術を持った方々が若手スタッフに伝えるみたいなことがあったんですね。操演とかのもろもろを。高野(高野宏一)さんもいらっしゃって、佐川(佐川和夫)さんも合流されて、佐川学校と言われてました。ガメラもあって経験値を持ったスタッフが出始めて、新しい技術もできつつ古い技術の継承も行われた。ちょうどCGが進出していた時代で、ここまではできるというのが積み重なっていきました」

満田「いまのを監督しろって言われてもできないね、技術的に。2か月くらい見習いで入ってからでないと(一同笑)。SLの運転手がリニアモーターカーを運転しろみたいなことだから。役者がそろわなくても合成でツーショットができちゃうとか」

小中「『ネクサス』では、予算は半分くらい。1本つくる度に赤字で累積していく。それで休んでたわけで、再開して同じ調子でやるのかっていうとできないですね。いまも現場は苦労してます。基準は守らなければならないという使命感はあるけど、予算は下がっているという」 

【その他の発言】

満田「『ジャンボーグA』(1973)は毎日放送から話が来て。プロデューサーが『仮面ライダー』(1971)のオールラッシュで上京するときに、ちょっと円谷プロ接触してこいって言われたみたい。赤坂の東急ホテルがいまあるところに円谷の分室があってぼくは詰めてたんだけど、エスカレーターを上がったところに週刊誌を抱えて待ってますっていうことで待ち合わせて」

小中「スパイ映画みたいですね(笑)」

満田「『ジャンボーグA』の企画は既につくってあったんだけど、すぐありますって言うと足元見られそうで考えますって言って、急遽考えたみたいに(笑)。毎日放送は、いまはTBS系列なんだけど、昔はテレ朝系列だったね」

 

 満田氏は、後年はプロデュースが主になっている。

 

満田「監督をやりたい気持ちは常にありますよ。監督やりたいからプロデューサーをしてるんでね。『ウルトラマン80』(1980)のときは、準備している間にもう最終回しか残ってなかった(笑)。いまのウルトラマンも、最初の1話は必ず見てます(一同笑)」

小中「ぼくはウルトラでやり残したことは、テレビシリーズとしてはあまりないかなと。唯一あるのは、金城(金城哲夫)さんのことを上原(上原正三)さんが書いた「ウルトラマン島唄」という。ノベライズはされてるんですが(『ウルトラマン島唄』〈筑摩書房〉)。飯島監督に撮ってもらいたいというのがあって、いろいろ動いています」 

 

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