私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

満田かずほ × 小中和哉 トークショー レポート・『ダイゴロウ対ゴリアス』(3)

【初期ウルトラや円谷一の想い出 (2)】

 『ウルトラセブン』(1967)の後には、サスペンス『怪奇大作戦』(1968)がスタート。

 

小中「『セブン』から『怪奇』と、子ども向けでない方向へ行きますよね」

満田「子ども番組と思ったことはないよね。日曜日7時だったし。夕刊も休みで、事件が起きるとNHKのニュースに行っちゃう。平和であってほしいなと(一同笑)」

小中「怪奇も視聴率高いですけど、打ち切られちゃうんですね」

満田「視聴率がグラフにされちゃって」

小中「『怪奇』が1969年の春に終わって『帰ってきたウルトラマン』が1971年春からでブランクが2年あるんですが、逆に言うと2年しか空いてなかったのかと。時代が完全に分断していて、後のイメージだと違うんですけど。『帰ってきた』の次の『ウルトラマンエース』(1972)が始まったころに『ダイゴロウ対ゴリアス』(1973)も始まったと」

満田「『帰ってきた』は1970年から、もうつくり始めてた」

小中「そのころ飯島監督はTBSから木下プロに行って、激動でした。満田監督は円谷一さんといっしょに営業に回られたり、苦労された時代だったかと思うんですけど」

満田「とにかく仕事がなくなった。『怪奇』が終わって『戦え!マイティジャック』(1968)はまだやってた。それが終わって何とかしなきゃと。円谷英二監督も健在で入院する前。1969年ころから “帰ってきた××” が流行ってて、ウルトラもそろそろ帰ってこさせようと。最初の企画書はぼくが書いたんですよ。企画部は誰もいなくなってた」

小中「金城(金城哲夫)さんは沖縄に帰られて」

満田「上原(上原正三)ちゃんも辞めちゃって」

 

 TBSを退社して円谷プロ社長に就任し、監督でなくプロデューサーを務めていた円谷一は1973年2月に急死。

 

満田「最後は亡くなる2日くらい前かな。すごくお元気だったから。倒れたって電話をもらったときは、病気になったって程度かなと思って行ったら亡くなったと。弟の円谷皐さんが専務だったから(円谷プロ社長に)。一さんより先に放送局(フジテレビ)を辞めてた。

 ビルの話もなくなって、4月の創立記念パーティーもやろうって言ってたけど、亡くなったのが2月。さすがに4月にやるわけにもいかない。『ウルトラマンエース』の放送中で『ウルトラマンタロウ』(1973)は関わってないんじゃないかな」

小中「飯島監督も実相寺(実相寺昭雄)さんも、一さんが長生きしてれば円谷プロと違うつき合い方をしたんじゃないかっておっしゃってますね」 

 【戦争について】

 2019年9月、飯島氏は戦中戦後を描いた自伝的な小説『ギブミー・チョコレート』(KADOKAWA)を発表した(『あの日、ぼくたちは』〈角川文庫〉)。

 

小中「飯島監督から疎開体験の話はちょいちょい聞いてたんですけど、断片でなく全体像として知ると違う印象ですね。上原正三さんの『キムジナ―kids』(現代書館)も沖縄の体験をリアルに書いてましたけど、東京での空襲や疎開が実感を持って判ります。少国民という存在がどういう意味を持っていたのかとか、ようやく知ったことがあります。平和な時代から戦中に徐々に変わっていくところをリアルに書かれてるんでいまにも通じていて、これを書かなければと思ったのが判ります」

満田「ぼくは5つ下なんだけど。ぼくは終戦のときは宮城県の仙台よりもっと北のところにいて、平穏だった感じでね。玉音放送も聴いたんですよ。学校に集合しろって言われて、でも小学校2年だから全く意味が判らなかった。教室に戻ったら、担任の男の先生がぎゃーって泣き出した。何だろうと思ったら負けたと。それ戦争が終わったんだと」

小中「(両親から聞くことは)あんまりなかったですね」

満田「自分も子どもたちに言ったことはないね」

小中「ずっと喋らなかった人が最期に喋るみたいなケースもありますね」 

 『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』のメイン脚本家だった金城哲夫は『帰ってきたウルトラマン』では第11話「毒ガス怪獣出現」のみを執筆。

 

満田「『帰ってきたウルトラマン』で2本書いてもらう予定だったんだけど、酒飲み行っちゃって。前から毒ガスが埋めてあるってねたは持ってたらしい。戦争に関しては、喋ったことはないね」

小中「きょう『ダイゴロウ』を見返すと核の話が出てきて、飯島監督は戦争についての意識は当時からあったんでしょうね。核にとどまらず公害問題も含めてテーマ性は出してます。最近のアメリカのゴジラ映画は核の扱いがひどいですから、きょうはいい気持ちになりました(一同笑)。ゴジラと名前をつけて、それはありかよと。怪獣映画の核の扱いは、難しいですけどおろそかにしちゃいけないと思うんですね。

 当時は(戦争が)体験としてみんな共通してたから、局のプロデューサーも含めて言わなくても判ると」(つづく