私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 インタビュー「人間に大事なものは論理より思想より、存在。」(1994)(2)

 相手の身になるといっても、例えば兄弟でもお父さんでもお母さんでもいいんですけれども、おなかが痛いと言ったとしますね。ああ、痛いんだろうなというふうに思うことはできるけれども、自分も痛くなるわけにはいきません。相手の身にすっかりなることはできません。だから理解というものには当然限界がある。どこまでいったって、完全に理解することはできません。ですから他人を理解しよう理解しようと思いながら生きていると、ああ、いつも私は至らない、理解できないっていうふうに、壁にぶつかってしまうわけですね。

 二〇世紀後半の哲学者の中に、そんなふうに他人、他者というものを、理解しよう理解しようというふうに務めるということは、ただ抑圧を生んでしまうというか、達成できない悩みを抱えてしまうことになるんではないか、ということを、本を素材にして語っている人がいます。本を読みますと、ちょっと難しい本だったりすると、この作者は本当は何を言いたかったんだろうというふうに考えますよね。これは学校でも、古文なんかを読むとこの作者はどういうことを言ったんだろう、あまり単純な言葉だといろんなふうに解釈できるから、でもほんとはどうだったんだろうということで、伝記を調べたりして、作者が本当に言いたかったことを探ろうとしますね。それは他人を理解しようとするのとちょっと似ている作業だと思うんです。しかし、私にも経験がありますし、他の小説家の方にお話を聞いた時にも話に出たんですが、学校の国語の時間にその小説家の文章が引用されまして、「この時作者は、①むなしい気持ちだったか、②嬉しい気持ちだったか、③怒りの気持ちだったか、④悲しい気持ちだったか、そのどれかに〇を付けなさい」という問題が出たとしますね。そうすると作者も答えられないということがよくあるわけですね。自分で書いた作品なのに、そうやって、聞かれると、もっと複雑で曖昧で、そんな四つの中の一つになんかとっても絞り切れないな、答えられないよ、というようなことがあるわけですね。といって、それが正しい答えともいえない。その書物の実体をというものを、書いた人が一番知っているとは限らないわけですね。ですから書物はなにも書いた人がどういう思いで書いたか、どういう気持ちを伝えたくて書いたかということを厳密にとらえる必要はない、とフランスの哲学者は言ったんですね。ロラン・バルトという人ですけれども、本というものはテキストであって、どのようにでも読んでいいんだというわけですね。その考え方で、ロラン・バルトという人は日本のことを書いているんですね。日本について、いろいろ面白いことを書いているんですけれども、それはほとんど日本人から見ると、日本の現実と関係がないんですね。なんかこう、言葉の遊びみたいな気がして、言葉の遊びとしては面白いんですけれども、それによってわれわれが自分を再発見するとか、あ、そうか、自分たちは他人の目から見るとこういうふうに見えるのかということでぎくっとしたり、そういう鋭さはあんまりないんですね。どうも力がない。いや、ことによると私のロラン・バルトの読み方こそ不正確なのかもしれないのですが、やっぱり僕は他人というものは厳然としてあるものであって、どう解釈しようとどういう人だと思おうとこっちの勝手だというわけにはいかないと思うんですね。やはり不完全であっても理解していこう、その人の身になるべく近くなろうというふうに考えていくことがやっぱり正しい道ではないかなというふうに思います。

 しかし、どうしてもそれは完全にはなりえないわけです。若いときというのは、目標が達成しないままであることはどうもいらいらすることなわけですね。人間の生き方について論理的に徹底しているとか、目標がはっきりしているとか、そういうことにやっぱり魅力を感じてしまいます。しかし考えてみますと、二〇世紀というのは、そういう徹底した観念であるとか、思想であるとか、それから論理的に非常に筋の通ったものの考え方に基づいた生き方ですね。そういう種類のものが敗北した時代であったとも言えるというふうに思うんですね。マルキシズムという二〇世紀の非常に大きな思想も、本で読むと実に体系としてきちんとしているし、ものの解釈についても教えられますし、人間の未来についてもスキがないというんでしょうか、とてもすばらしい考え方に見えるんですね。しかしそれを実際に政治の場で使おうとすると、非常に無理がある。つづく

以上、「国語通信」1994年初春号より引用。 

月日の残像(新潮文庫)

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