私の中の見えない炎

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山田太一 インタビュー「人間に大事なものは論理より思想より、存在。」(1994)(3)

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 それはなぜかというと、人間というのは論理的にできていないからなんですね。観念のように徹底しているわけでもないんですね。もっとこう、ぐじゃぐじゃした曖昧な存在なわけですね。で、ぐじゃぐじゃした曖昧な存在を徹底した観念の枠に入れようとすれば、それはどうしたってみんな苦しい思いをしてしまうわけですね。ですから、人間は理解しなければいけない、というのは言葉としては非常にきれいだけれども、実際にそれをやろうとするとできないから、みんな劣等感を抱えてしまうようなことになる。あるいは、投げ出してしまったりね。しかし、人間というのはやはり、論理より思想より、存在が大事なわけですから、存在が中心にならなければならないというふうに思います。そういうところで論理にも支配されず、観念の美しさみたいなものに引き摺られないで、なんとか人間らしい生き方をしたいものだというふうにみんな思っているわけですね。

 それじゃあどういう生き方をこれからしたらいいんだろうかというときに、普遍的な観念から抜け出す道の一つは民族主義ですね。自分たちが育った場というんでしょうか、人間はそこで育った、その土の中で育ったというか、そういうものを非常に重視する考え方、それはどうしても排他的になるというんでしょうか、狭く狭く自分の仲間を作るということになってしまいますね。それからもう一つは宗教ですね。これは少なくとも論理一辺倒ではない。では、人間の生活がそれで少しは豊かになったかというと、とんでもない、今はもうその民族主義宗教戦争で大変な争いが世界中に広がっているわけですね。そういうふうに人間ていうのはやはりなにか生きるよすががほしいんだけれども、なかなかその中庸を行くということ、中道を行くということが難しいんですね。極端から極端へ行ってしまう。ある民族、日本なら日本でもいいですけれども、日本人を大事にするんだ、日本はすばらしいんだと極端に言えば、他の国はすばらしくないということになってしまいますし、日本人にしかわからない現実があるんだとか、日本人にしかわからない良さがあるんだということを言い過ぎれば、やはりそれによって他の民族たちを排除することになります。それは宗教も同じです。それが嫌なために、ヨーロッパを中心にして、もっと普遍的な言葉はないんだろうか、生きるよすがはないんだろうかと考えたのが、言ってみればマルキシズムであったり、自由主義、民主主義であったりしたわけですね。その両方を揺れ動きながら、我々は本当に生き生きした自由な世界というものを求めているわけですけれども、なかなかそれが手に入らない、というのが現実だと思います。若いときにそんな中道を行くとか、曖昧なところでいいんだ、徹底しなくていいんだというような生き方というものになかなか共感はしにくいでしょうけれども、しかし私たちは、極端な観念でもなく、極端な民族主義でもなく、一つの宗教に凝り固まるのでもなく、なるべくたくさんの人が自由でいられる世界、幸福感を感じて生きていられる世界というものを手に入れなければならないところに直面しているというように思います。それに対してどういう態度をとるかということを問われていながら大人の私たちもどうしていいかわからない。答えがない。ですからいろんな答えが、今、いっぱい出ております。みなさんがこれからどう生きたらいいかということで本を読み始めますと、実にあらゆることが言われておりまして、その中のどれが正しい、どれがベストであるということは言えない時代に入って来ていると思います。そういう点では勉強すればするほどわからなくなる時代である。ですから一つ、自分の原点に戻って、自分とは何か、もう赤ん坊ほど新しくやり始められないみなさんが、今、自分が大事に思っているものは何か、それから、こういう世界になったらいいなということを考えるというのでしょうか、そういうことを、地道に周囲から始めて、その地道さを手放さないことがひとつの答えかな、などと思っております。 

以上、「国語通信」1994年初春号より引用。

夕暮れの時間に (河出文庫)

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