【笠原和夫の人間像】
荒井「笠原さん自身やくざが好きだったわけではないし、やくざ映画の脚本家と言われるのは厭だったんじゃないですかね。当時はロマンポルノややくざ映画を書いてるのは普通の脚本家じゃないと言われて。「月刊シナリオ」もロマンポルノを載せなかったんじゃないかな。世間的には非難対象で、日本共産党もやくざ映画とポルノ映画を攻撃してましたからね。笠原さんは『大日本帝国』(1982)でも軍国主義映画だと非難されて。みんな見ないで言うんですよ、タイトルだけで。右からも左からもやられたって言ってましたけど、ずっと孤立してたと思います」
荒井「ひばり(美空ひばり)映画から始まって時代劇、やくざ映画、戦争映画。全部勉強してやっていたと思います。
インタビューしている部屋の壁に勲章があって、引き裂かれてる。天皇が嫌いってのと好きっていうのと。戦中派のアンビバレントなところだと思います。権威に対する反撥もあるけど好きってところもあって、絓(絓秀実)には絓先生と」
吉田「いま「映画芸術」に笠原さんの日記が連載されてますね」
荒井「亡くなるまでつけてたんですよ。奥さんから預かってて、出版は無理ということで。でも面白いよね。「映画芸術」でいちばん面白い(一同笑)」
吉田「読まれることを意識していたんでしょうか」
荒井「日記って、作家が書くときは読まれることを意識しているんじゃないのかな。女のことも平気で書いてあって、何回やったとか(笑)」
吉田「笠原さんが自宅で仕事をされていたとき、ご家族の方も気を遣われるんじゃないかという」
荒井「笠原さんが旅館じゃなくて自宅にいるときは、奥さんも友だちつれてこられなかったと。鈴木尚之さんの奥さんも、赤ん坊が泣くとつれて外へ出たらしい。ぼくらの時代になると、ぼくらが外へ出る(一同笑)」
【その他の発言】
以下、印象に残った発言をランダムに紹介したい。
吉田「笠原さんは(脚本を)シナリオ誌に載せるときは、決定稿そのままではなく微妙にちょっと変えたりしているわけですよね」
荒井「それは載せたい稿を載せるべきだと思いますよ。出来上がった映画からスクリプターが採録したものは、脚本家が書いたものではない。準備稿を載せたい人もいる。脚本を雑誌に載っける場合に、編集部が「映画と違っている部分があります」と断るんでそれやめろって言ったことがある。「映画と」じゃなくて「映画が」違っているんだよ。何考えてんだお前(一同笑)。
いまはねたばれということばが普及して(シナリオの掲載が)難しい。飲み屋でラストの話してたらすごい目でにらまれて(一同笑)。面白いところはばれても面白いわけで、そうじゃないとシナリオの勉強ができないじゃない?」
吉田「荒井さんは鈴木清順共闘にも参加されてますよね。鈴木清順の映画は見ていたんですか」
荒井「見てませんよ(笑)」
吉田「大島渚は鈴木清順の映画を見たことがあるのかって、言われてましたね」
荒井「『けんかえれじい』(1966)とか『殺しの烙印』(1967)はリアルタイムで見てたけど、それ以前のは清順共闘であわてて見に行ったかな。高校生くらいのころは、鈴木さんだと意識しないで見てたんですよ。吉永小百合かなんか目当てで行くと、鈴木さんの映画があって、ふすまが開いて色が変わっていくんで何なんだこれはと。それ以後は美学コンプレックス(笑)」
吉田「荒井さんは田中陽造さんの弟子で、映画にならなかった『トラック野郎 危機一発』も手がけています。後半は記憶喪失になった百次郎がニトログリセリンをトラックで運ぶ」
荒井「その年にフリードキン(ウィリアム・フリードキン)の『恐怖の報酬』(1977)があって、それでこうなったんだよ。もとのクルーゾー(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)のと『心の旅路』(1947)の記憶喪失をいっしょにしようと」
荒井氏は、大西巨人の長大な小説をシナリオ化して刊行した(『シナリオ 神聖喜劇』〈太田出版〉)。それから15年が経つが、映像化はされていない。
荒井「高瀬(高瀬幸途)さんっていうあの本をつくろうと言い出した人が、解放同盟の金を当てにしてたんですよ。ただその中でもいろんな意見があって、地方の活動家は寝た子を起こすなと。みんなが忘れかけてる部落差別の問題を、こういう映画をやることで、またちょっと。長さも長さだけど、妥協して中だけにすれば、4時間くらいで。原作を読むだけでも大変だからね」
荒井氏が脚本・監督を手がけた映画『火口のふたり』(2019)は、現在待機中。