私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

荒井晴彦 × 吉田伊知郎(モルモット吉田)トークショー レポート・『笠原和夫傑作選』『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』(2)

【『昭和の劇』】

吉田「1999年から『昭和の劇』(太田出版)のインタビューが始まります。山根(山根貞男)さんが深作欣二監督にインタビューしてると聞いたのがきっかけと」

荒井「何でインタビューは監督なんだ、いつもっていう。おれが脚本家の本つくってやろうと。映画は監督のものだとか、冗談じゃねえってずっと思ってたし。舞台挨拶も監督と役者でしょ。

 最初はおれがインタビューするっていうのではなくて、全部見てるわけではないし、ただ本をつくろうということで。笠原さんの家に行ったら、中条省平さんに(インタビューアー)を頼んでくれないかと笠原さんが。でも中条さんは『仁義なき戦い』(1973)は見てるけど、他のはとても見てないと。それで絓秀実が入る。ぼくは荒井くんって呼ばれたけど、絓は絓先生。大学の先生には態度違うんですよ(一同笑)」

吉田「隔週で毎回4時間話を聞かれて。99年の7月から2000年の11月まで1年以上」

荒井「(作品を)ビデオで見て、見られないのは東映の試写室で」

吉田「かなり手間かかりますよね」

荒井「この時期、仕事なかった(笑)」

吉田「このころは(フィルモグラフィー上)空いてますね」

荒井「ただでさえ仕事のない脚本家だったのに映画(『身も心も』〈1997〉)撮っちゃったんで、さらに減ったんだよね」

吉田「文字起こしや構成は他の方ですか」

荒井「高橋(高橋賢)さんっていう素晴らしい人がいて。終わってからですよ。膨大なテープを起こして整理して。笠原さんが亡くなるぎりぎりだったですね。笠原さんは校正のチェックには入っていなかったかな。もうかなり人工透析をする状態で、もう任せるよと。繰り返しになるようなところは切った。金井美恵子姉妹は絓のとこを全部切ればいいと(一同笑)。悪魔のシスターズだね(笑)」

吉田「荒井さんが直したところはあるんですか」

荒井「脚本家なんで(笑)。最初から映画コーナーに置かないでくれないかなっていうのはあった。そうじゃない人に読んでほしい」

吉田「出版は2002年11月で、その翌月に笠原さんはお亡くなりに。できた本の感想は聞けなかったんでしょうか」

荒井「そうですね」

吉田「『福沢諭吉』(1991)や映画化されなかった『真珠湾』の澤井信一郎さんは『昭和の劇』の事実関係はちょっと違うと、ご自分の著書で言われています」

荒井「澤井さんは、ぼくらの世代と笠原さんの世代との真ん中ぐらい。ただマキノ(マキノ雅弘)さんの弟子だからね」

吉田「『真珠湾』は荒井さんも読んでないんですね。笠原さんが最後に書かれた作品で、読んでみたいんですが。どういう形で山本五十六を描いたのか」

荒井「澤井さんは、あの日山本五十六が東京にいたことにしたいと。笠原さんは事実としては広島にいたから、東京にはいない。「いいじゃないですか」「いやそうはいかない」。おれもそう思うな。資料がないならともかく広島にいたという資料があるんだから、それは曲げられない」

吉田「『昭和の劇』は亡くなる直前の深作欣二さんもお読みになってるんですね」

荒井「息子の深作健太が「親父が最期に読んだ本です」と。自分のとこばっかり読んでたらしい(一同笑)。笠原はおれを何と言ってるんだろうと。

 深作さんとは旅館がいっしょになったことがあったな。ふたりともチャーミングな人だけど、ちょっとした年齢差があるでしょ。その差が戦争中はものすごく大きいんだなというのを思ったな。『仁義なき戦い 広島死闘編』(1973)でも北大路欣也に思い入れがある笠原さんと千葉真一に思い入れがある深作さんと、明確に分かれている。戦中派と戦後のアプレゲールの違いというか、呉で殴られてばっかりいた笠原さんと水戸の空襲で死体を片づけた深作さんとの違いでもある。このふたりは面白いなってシンプルに思った。

 (コンビが途絶えたのは)理由らしい理由はないんじゃないかな。コンビの仕事が来なかったとか。深作さんも笠原さんだとプレッシャーかかるし」

吉田「『昭和の劇』以降は、笠原さん関係の本が次々出版されましたね」

荒井やくざ映画の脚本家ということで、やっぱりそんなに評価が高くなかったですよ。映画は監督のものだとか、脚本家自体が疎外されてるところもある。さらにやくざ物の脚本家だから脚本家仲間からも疎外されて、二重の疎外があった」

吉田「笠原さんが亡くなった後、荒井さんの仕事にも変化が出てきますね」

荒井「『昭和の劇』で笠原さんと喋ったことの実践だね。その後の『KT』(2002)もそう。戦争がらみというのを、やっぱり深作さんと笠原さんの亡き後にやらないとなと。やればいいってものじゃないですよ。原田眞人のとか(一同笑)。昔、原田眞人あさま山荘を機動隊側から撮って、若松孝二が怒って別荘の中を撮った。すると、どうして機動隊側から撮っちゃいけないのって人もいる。先輩の脚本家たちは、映画は弱いものの味方であるべきだっていうふうなことを言ってたけどね。そうじゃなくなったよね。面白ければいいじゃんみたいな。『カメラを止めるな!』(2018)とかワーストに入れる価値もない(一同笑)。ただバカ騒ぎしてるだけじゃないの。映画を見ない人たちが見てるんじゃないのかな」(つづく)