私の中の見えない炎

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秋野太作 トークショー レポート・『私が愛した渥美清』(2)

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渥美清の想い出 (2)】

秋野「ひとつの流派でずっとやってくとワンカメになりますね。それが鳥の目になって、客観視するきっかけになりましたね。新劇のやり方が悪いというわけではないですよ。千田是也さんは立派な方でいろいろ教えていただいたけど、あくまで舞台のこと。一歩外に出ると映像は全然違うから。そこに順応しなきゃならない。渥美さんに守備範囲を広げていただきましたね」

 

 つづいてテレビ『男はつらいよ』(1968)などでも共演。

 

秋野「渥美さんも目が笑って、ぼくも笑いをこらえる。最初はぎくしゃくして困りましたけど、渥美さんもぼくをリラックスさせてくれて。リハが2日もありますから、演出家も笑って見てくれて、ラッキーでした。スタジオドラマは芝居をずっとやって舞台に近い。長くやるとどんな現象が起きるかというと、役者の世界になるんです。ブツブツ切ると、演出家の世界になる。長くやると、思い通りにいかないけど別なところにすとんと落ちたりすることがあり得る。特に喜劇は。そういうスタジオドラマの面白さがあふれていたのは、テレビの『男はつらいよ』と『天下御免』(1971)です。

 計算外のものが出るってのは芝居の本質で自然なことです。頭で考えてやるのは不自然。自然なことは人間の思惑を超える。書斎で考えたことを超えるのが面白い。小さな頭だけで考えたことをやる人が多いけど、それを超えるのが喜劇の世界。許容範囲も広いですね。シリアスな人は自分の世界に固執して、つき合うのも大変です(笑)」

 

【映画『男はつらいよ』について (1)】

 『男はつらいよ』のテレビ版の反響が大きかったゆえに映画化が決まったと資料には書かれているが、秋野氏は事実と違うと証言する。

 

秋野「松竹での『男はつらいよ』(1968)の映画化が事実と違って伝説化して残るのはどうなのかな。ここは正しておいたほうがいいかなと思いました(笑)。春日(春日太一)さんも気をつけられたほうがいいのは、役者は結構嘘つく奴もいる(一同笑)」

春日「ぼくが取材した中でも『仁義なき戦い』(1973)はおれが企画したって言う人が6人いたんです(一同笑)」

秋野「つくり方の違いからなんだけど、映画は山田洋次さんの色合いが強く出て渥美さんもその中の駒と言うんですかね。だんだんそうなっていきましたね。スタジオドラマはほんとに可笑しかったんで、みんな笑いをこらえるのに必死でね。困ったら後ろ向いて…。映画になったら何が面白いのか判らない。

 山田さんの功績も大きいんですよ。山田さんのホンは真面目で、そこに渥美さんのスパイスが入る。台本が真面目なほうがいい。新劇的な一分の狂いのない中に入ると、渥美さんはいきいきしてくる。森川信さんなんかもうまくいってましたね。実は必死に書かれた真面目な脚本、そこに突っ込み入れるのが渥美さんですね。

 正直言って映画の『男はつらいよ』を見るのはつらいです。とても複雑ですね。これはぼくだけの思いですね。どんどん遠く行っちゃうみたいに感じられて、すごく悲しい(笑)。パターンでマドンナが誰かとか、その中で渥美さんが踊らされてる。渥美さんはああ見えて欲のない人。一生懸命日本一になろうと努力してたけど、江戸っ子の淡泊さもあって淡々としてました。体のこともあったと思う。舞台ができなかったんですよ、肺が1個しかなくて。やりたかったと思います。森繁(森繁久彌)さんは72歳まで『屋根の上のバイオリン弾き』をやってて、うらやましかったと思う。年1本の『男はつらいよ』しかない。できないつらさ。やってくれたら、共演の機会もあったのに。テレビも時代が変わってきて、渥美さん主演のものが当たらなくなって、映画に閉じこもるしかないというのもありましたね」  

 秋野氏は映画版の10作目『男はつらいよ 寅次郎夢枕』(1972)で降板。歳月を経て『男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎』(1984)に出演している。

 

秋野「ずっと会わなかった親戚に会ったような気持ちでした。北海道にいる親戚みたいな。離れてても、どっかでずっと思ってましたね。お互い余計なことは言わなくて「どうだい、調子は?」「まあまあです」「そうか」。2人で並んでても黙ってることが多かった。全然違いましたね、浮いちゃって。ぼくは、何でこんなところにいるんだろうと」(つづく)