【『とめてくれるなおっ母さん』の想い出(2)】
蛾次郎「この映画(『とめてくれるなおっ母さん』〈1969〉)について話すのは初めてだね」
利明「タイトルは東大の駒場祭のコピーで」
蛾次郎「 “とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く” っていうフレーズが流行って、それでつけたんだな」
利明「コピーを書いたのが後に作家になられる橋本治さん。当時のカウンターカルチャーで、その映画は山田洋次監督を待たせた青年が主役になって。
この年の3月27日にテレビ『男はつらいよ』が最終回です。寅さんが奄美大島でハブに噛まれて死ぬ」
蛾次郎「ぼくも沖縄にいっしょに行って、寅が噛まれて死ぬ。ぼくはそこに立ち会ってた」
利明「このときの役名は源ちゃんでなく川島雄二郎。川島雄三と石原裕次郎を足したという。この衝撃の最終回の後に寅さんの映画化(『男はつらいよ』〈1969〉)が準備されて『とめてくれるな』と平行してます。撮影も同時進行。
田向(田向正健)監督は中村登監督についてた。蛾次郎さんたち3人を“ ちょこちょいトリオ ”として売り出そうと。
蛾次郎「そうだった。その名前を金語楼(柳家金語楼)さんがつけたのは覚えてる」
『とめてくれるな』は横浜の映画なのに、迎えに御茶ノ水に行って明治大学のデモが出てくる。わざわざ出すのには田向監督やスタッフの共闘感覚が」
蛾次郎「田向さんは真面目な人だったからね(笑)」
脇を固めるのは松竹の喜劇人たちだが、後半は悲劇的。
利明「田向さんは普通の喜劇としてつくる気はなかったでしょうね」
蛾次郎「田向さんはそういう感じじゃない」
利明「後半で北海道に行って、ああいう展開になるというのは覚えてました?」
蛾次郎「覚えてないね」
利明「松竹ですが日活のアクションみたいな」
蛾次郎「ぼくは日活ニューアクションに結構出てますからね」
利明「『とめてくれるな』の後に澤田幸弘監督の『反逆のメロディー』(1970)とかで、監督たちがこういう蛾次郎さんにインスパイアされたんですね。澤田さんたち日活の方々も寅さんをよく見ていたようです」
蛾次郎「澤田監督によく使われましたよ。原田芳雄といっしょに。兄貴兄貴って言って、原田さんの家行ったりして」
【その他の発言】
利明「『とめてくれるな』の時期の『男はつらいよ』の1作目での源ちゃんは、寅さんがふられたのが判ったとき嬉しそうでしたね」
蛾次郎「♪殺したいほど惚れてはいたが〜って「喧嘩辰」を唄うんだよね(笑)。嬉しくてしょうがない。山田監督が「蛾次郎、知ってるか」って言うから「はい、知ってますよ」。「唄ってみろ」ってことでああなったんですよ」
利明「東映の加藤泰監督の『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(1964)の主題歌ですね。内田良平さんが主演でした」
蛾次郎「内田さん、面白い人でね」
利明「松田優作さんとも『あばよダチ公』(1974)などでコンビを組んでいます」
蛾次郎「優作とも飲んだりハワイ行ったりして。なかなかいい奴で。浅草に飲みに行って、柄の悪いところで「おい、蛾次郎」とか言う人もいるんだけど、優作がいるとみんな何も。あいつ怖いからね(一同笑)。「蛾次郎さんって言い直せ」って言ったりね。あいつは先輩を立てるから」
利明「蛾次郎さんは映画がお好きで毎日すごい本数を見てますけど、出るときはこういうテーマだからこういう役づくりだ、とかは」
蛾次郎「何も考えない(一同笑)。現場、現場。はいはいとやって、いちいち考えない(笑)」
利明「これは思い出深い、見てほしいというのはありますか」
蛾次郎「いろんなのに出てるから何かしら調べて見てください(一同笑)」
利明「『とめてくれるな』で山下公園にたたずむところとか二枚目、二の線ですね」
蛾次郎「ぼく、だいたいいつも二ですよ(一同笑)。うちの女房も美人でしたから。亡くなっちゃったけど。仕事がいっしょになって気がついたらいっしょになってた」
利明「夢のような展開ですね」
長男の俳優・佐藤亮太氏も来場されていた。
利明「お父さんはお医者さまで、何人兄弟ですか」
蛾次郎「10人くらいかな」
亮太「10人じゃない。もっともっと」
蛾次郎「そうだった。あそこにもいるし」
亮太「おれは兄弟じゃない。あなたの息子(一同笑)」
蛾次郎「こういういい加減な男でね」