【『吹けば飛ぶよな男だが』(3)】
山田「この映画(『吹けば飛ぶよな男だが』〈1968〉)をつくってるときは、関西と関東のことは考えなかったね。蛾次郎(佐藤蛾次郎)見てると関西の人間は面白いな、いままでぼくはイメージしたことのない人間がここにいるなという面白さは感じたけれども。犬塚弘さんは全く関西じゃないよね、どう考えても関東の人」
なべ「文化学院出ですから」
山田「何代もつづいた江戸っ子で、ああいうタイプは、本当は関西にいない。近ごろになってとても感じますね。関西の役者の特徴というか、藤山寛美も森繁(森繁久弥)さんもふにゃふにゃしてて、体型的にもね(一同笑)。考え方もふわっとしてる。関東以北の人はストレートにとんとんとんっと行くみたいなところがあって、顔つきも体つきも違う」
なべ「もうひとつ余計なこと言うと、そのころのぼくは発展途上でフジテレビのお正月番組の隠し芸大会にその他大勢で出ててんだけど、初めてピン芸をやれるようになったんです。その年の11月に撮るんですけど、なんかやらなくちゃいけなくてぼくが選んだのが啖呵売。ぼくはやくざ者の親分の香具師にお願いして、3つくらいの系統に聞きに行ったんです。一所懸命書いて、この撮影がないときに練習しました。(ここで啖呵芸を語ってみせるがブログでは再現不能…)
毎日やってたら先生が “それ何やってるの?” 。“香具師がやる啖呵で、日本にはふたつのやくざがあって、稼業人と渡世人がいて、稼業人は大道でやる香具師で、お客さんを呼び止める”って説明して。映画が終わって1年経ちました。2年経ちました。見に行ったある映画で(同じことを)やってるじゃありませんか(一同笑)」
山田「渥美(渥美清)さんがね、あれをわーっと言える。いまのきみみたいににね。
(終盤の墓のシーン)5人でロケーション行ったな。予算がないのよ。でもどうしても島原に行きたいのよ」
なべ「プロデューサーひとり、出演者はぼくひとり、高羽(高羽哲夫)さん、キャメラの助手、照明も弟子をつれていかない。親分が光当てて。熊本の劇場で劇場挨拶までさせられて、プロデューサーはお金とってました(笑)」
山田「若かったね。それでもいいから何とか行かせろと。ライトなんかももちろんない」
なべ「ぼくも照明やらされた。こう持てとかね」
山田「虐待された映画ですね(一同笑)。会社が乗らない企画だから」
なべ「大船調という決めごとの中で違う映画をつくろうとするといじめられるわけでしょ。先生は功成り名遂げて、残られたひとりですね。いまの日本では…」
山田「もういい、それは(一同笑)」
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【創作について(1)】
山田「戦前からいろんなジャンルの中で喜劇は軽く見られて、お客さんが映画館でげらげら笑うようなのは二流三流。監督も駆け出しとか下手な監督がやると。コメディアンに面白いことさせて観客のご機嫌を伺うというそういう根強い思想があった。斎藤寅次郎さんなんかが優れた喜劇をつくって、アートと言っていいんだけど、そういう形では一切評価されなかった。ぼくはハナ肇さんを主人公にして馬鹿シリーズをつくったけど、会社としてはプログラムピクチャーとして扱うだけ。ぼくはそういう考え方に反撥があったんですね。喜劇は文学でも映画でも難しいし、喜劇によってしか表現できない人間の愚かさってのがある。ちゃんと喜劇を考えていいんじゃないかと。
プログラムピクチャーという、松竹東宝東映といった会社が毎週映画を制作して自社の映画館チェーンで上映するシステムがあった時代。小津安二郎や黒澤明といった巨匠のA級作品、芸術と言っていい。その次がメロドラマとかスターが出てくるB級作品、その次にコメディが位置していてC級作品。安っぽくていいんだというようにプログラムピクチャーを量産して、いい加減な監督や脚本家もいっぱいいて、ぼくなんか助監督をしててこんな映画をつくっていいの、入場料を払う観客に対して失礼じゃないかと。喜劇であれヤクザ映画であれアクションであれ、つくり手は心を込めてつくるべきじゃないかとずっと思ってましたね。ぼくは芸術作品なんかつくれるわけはないけど、少なくともプログラムピクチャーをきちっとつくる。そういう思いで寅さんシリーズをつくり始めた気がしますね」(つづく)
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