【薬師丸作品の想い出 (2)】
角川映画の宣伝の仕事は、遠藤氏にとって刺激的であったという。
遠藤「(角川映画は)パブリシティにお金をかける。つくることと売ることを同じくらいのエネルギーでやって、宣伝も(当初から)組み込まれてましたね。宣伝担当として企画の段階から参加して、主題歌の作詞作曲をどなたに発注するか。さがすには時の人にアンテナを立てないと。出来上がったものを売るという映画会社の宣伝とは違ったものでした。
テレビスポットは既存の映画会社の発想になかった。テレビを使うってすごい戦略で、書籍・音楽・テレビという三位一体。メディアミックスのさきがけでしたね。
残念なのは、クオリティは高いのに話題優先とくくられていて、アカデミー(日本アカデミー賞)でも話題賞で本賞にならない。でも若い人はおもしろがってくれて。
いまは製作委員会システムで、1社で映画をつくることはない。角川映画によって今日の礎がつくられた。80年代のエポックメイキング的な功績はものすごくあると思いますね。映画を当てるためにチームづくりをしよう、媒体を持ってるところとジョイントしようと。角川映画がやってたことをフジテレビがやっていくんですけど、テレビ局の人たちが踏襲していく。出版社や代理店と組んで認知させるというやり方ですね」
『Wの悲劇』(1984)は高い評価を受け、大女優役の三田佳子はその年の助演賞を総なめした。
遠藤「ぼくは(『Wの悲劇』の)薬師丸(薬師丸ひろ子)さんはもっと評価されていいと思うけど。三田さんも初めて助演に回られて。澤井さん(澤井信一郎監督)は助監督として三田さんの映画につかれていたので、三田さんにやっていただけたから作品が盛り上がった。
薬師丸さんは等身大の20歳の役で、どうするかで宣伝チームで喧々諤々やってました。
原作は、親の殺人を子どもが引き受けるというのはリアリティがないというのでほかの監督が断っていたのを、澤井さんがああいう方向に持っていった。
薬師丸さんはこの作品をやったことで悩んじゃった。『翔んだカップル』(1980)は学園物で、『セーラー服と機関銃』(1981)もその延長ですが、この作品ではひとりの女性だったらどうするかが求められる。性的なことも含めて自分ならどうするかが問われる。本人はおかしいと思っても、この主人公はやる。そういうことが役者さんにとっては大変で。オープニングで先輩と一夜を過ごした後、石神井公園で暗がりの中で演劇論を交わす。これはいままでの普通の人生にはない。
いま見ても色あせない。細かいところにまで気が行ってるなと。薬師丸さんと三田村(三田村邦彦)さんが最初の夜を過ごして、しばらくして三田村さんがらせん階段に来て、薬師丸さんが肩のタオルを腰に巻く。あの意味を澤井監督に訊くと1時間くらい喋り出すけど(笑)、よく男の監督がやるなって。
ラストカットにも集約されていますが、カーテンコールをしながら泣き笑い。現場で見ていたら何度もリテイクで、泣きすぎてもダメ、笑いすぎてもダメ。ぼくあんまり泣いたりしないんですが、この作品を見て本人の奮闘が伝わってきてちょっと泣けてしまった。澤井さんと戦いながらつくってきて、こんなことが毎回やれるかって、薬師丸さんは悩んだと思います。(過去の作品は)特殊な設定だったのが、こういう等身大の設定になると、いい意味で不器用な人なので役に到達するまでは大変だったと」
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【角川三人娘について (1)】
薬師丸ひろ子と原田知世、渡辺典子が角川映画の三人娘と称された。
原田知世は『時をかける少女』(1983)、『愛情物語』(1984)、『天国にいちばん近い島』(1984)などに主演した。
遠藤「『セーラー服』が終わって若干空いて、第2の薬師丸をさがせということになって、渡辺典子さんがグランプリ、原田知世さんが審査員特別賞。言い方は何ですけど、その三人娘で2本立てをつくっていきました。
原田知世さんは透明感があった。とにかく彼女を残そうと角川(角川春樹)さんからも(指示が)あって審査員賞でした。さわやかでバレエもできて、腹筋とかはできなくても、柔軟体操になると身体がやわらかい。普通のタイプと違っていて、角川さんの中でも新しい女優が見つかったと。監督として気に入っていた」(つづく)