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山際永三 トークショー レポート・『帝銀事件 大量殺人 獄中三十二年の死刑囚』(1)

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 1948年1月26日、帝銀事件椎名町支店で行員ら12人が殺された。検事(橋本功)や警部補(田中邦衛)らは画家・平沢貞通(仲谷昇)をマークする。

 謎につつまれた帝銀事件をドラマ化した『帝銀事件 大量殺人 獄中三十二年の死刑囚』(1980)。原作に松本清張、脚本に新藤兼人、監督に森崎東などスタッフには大物が名を連ねる。

 2月に死刑映画週間の一環としてリバイバル上映され、山際永三監督のトークもあった(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

 若いころに映画監督もやっていたんですが、映画のつくり方というのは大体判っているつもりです。

 本日の帝銀事件の映画を見て、2時間半近い長さで圧倒的な情報量で迫ってくる感じがして憂鬱です。なさけない思いでいっぱいです。この映画は、完全にとは言いませんが70パーセントぐらいは警察・検察の立場で描いてますね。平沢さんの人間性も若干出てはくるんですが、こういう形で描かれていいのかと複雑な思いに駆られます。映画は商売にならなくちゃいけないですけども。

 この映画の前に熊井啓さんの日活映画で『帝銀事件 死刑囚』(1964)がありました。この作品は新聞記者物なんですね。当時流行りのセミ・ドキュメンタリーで、ドキュメンタリーに近い撮り方をしている。当時新鮮な思いで見て、最近ももう一度見てみたんですがなかなか上手くできています。

 きょうの映画は松本清張原作、新藤兼人脚本で野村芳太郎監修。監修って何をやるんだか判りませんが(笑)。錚々たる映画人が関係していますが、伝えられている情報は嘘っぱちのところもあります。フィクションだから嘘でもいいじゃないかという意見も多いと思いますが。

 私は帝銀事件の再審を求める会に入っていて、平沢さんが死ぬ前に養子縁組をした武彦(平沢武彦)さんが中心になって第19次という請求をしていて、武彦さんの死とともに法律上なくなっちゃったんですね。その後しばらくなって、弁護士の一瀬敬一郎さんを中心に弁護団が編成されて、平沢さんの直系の親族の方が請求人になって第20次をやっております。免田栄さんは第6次で無罪を取ってますね。第3次で再審開始の決定が出たんですが、検察官の上訴によってダメになって、第6次で日弁連も総力を挙げる形で支援して無罪になりました。平沢さんは何と20次で、どうしてこんなに長くかかっちゃうのかと、われわれは精神が萎えていく感じもあるわけです。

 松本清張さんもいろんなことを調べているでしょうし、新藤兼人さんも調べて、いろんな人が知恵を絞って全貌を明らかにする意気込みでつくられた映画であることは判ります。だけどこれは警察物、刑事物。私のように直系の親族といっしょになって第20次の再審を何とかしたいと思っている人間は…情報量に圧倒されてふらふらです。

 帝銀事件GHQがからんでいる複雑な事件ということになっています。警察や検察庁での取り調べは、日本型の冤罪事件の典型でもあります。ぼくらは戦後冤罪史の原点だとの思いも持っております。

 この映画には、帝銀事件は謎が多くて、平沢さんは冤罪で犠牲者なんじゃないかというテーマは出てきます。ただ映画は画面に映ってる役者の顔に、どうしても見る人も演出する人も思い入れが入っちゃう。だから映画は面白いとも言えるわけですけれども、冤罪だというテーマと思い入れとはちょっとずれるんですね。見てる間は、映ってる人に引き込まれる。

 ぼくは再審を求める立場的に、平沢さんを主人公にしたものをつくってもらいたいんですね。多くの人は謎を暴くとか、もっぱら証拠とかに興味を向けて何時何分にこうだったとか。いろんな文献を読んでいて、たしかに正しく映画に反映されていて感心する面もあると同時に、当時の写真が残っているからこれは嘘だなという部分もあって、でもどんどん映画は進んでいって、私の批判的な見方はどっかに置いてかれてしまう。最終的には冤罪なんじゃないかというふうに描かれていて、われわれ再審を求める会としても文句を言う筋合いじゃないんですね。ご苦労さま、でもいろんなところで間違いも多いねと後ろを向いて言ってるというか。

 平沢さんはちょっと変わった人で、そのことはきょうの映画にも出てますけども、虚言癖だと警察やジャーナリズムに言われたりしましたがそうではないんです。彼の人格を理解するためには明治・大正時代の日本の文化人、画家とか小説家とかがどういう種類の人間だったかを考えていただきたい。ある意味では大言壮語で、自分は偉い芸術家なんだ!というところもある。平沢さんはそんな感じで刑事や検事にものを言ったし、それで痛めつけられる。有名で大言壮語するような文化人だったからこそ、捕まった後の絶望感は強かったんじゃないかとぼくは思うんです。彼は平沢大暲という名前で絵を描いてたんですが、その雅号をもらったのは横山大観日本画の大家ですね。横山大観も警察に調べられて「平沢なんて人は知らん」と言ったという話もあるんです。刑事がつくりあげた話かもしれませんが、師匠と思った人に知らんと言われたときの平沢さんの絶望感は容易に察することができます。大正・明治時代の文化人の誇り高さを考えると、相当のダメージだったんじゃないかなというふうに思います。(つづく

 

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