1980年代に過剰なまでに供給された反動か、90年代に入ると原爆を描いた作品は減じた。冷戦が一応終結して核戦争の危機が去ったように思われたのもあっただろう。
この “停滞” の時代に井上ひさしは舞台『父と暮せば』(1994)にて、投下から3年後の広島を描いている。戯曲のまえがき(新潮文庫)にて井上は「二個の原子爆弾は、日本人の上に落とされたばかりではなく、人間の存在全体に落とされたものだと考えるからである。あのときの被爆者たちは、核の存在から逃れることのできない二十世紀後半の世界中の人間を代表して、地獄の火で焼かれたのだ」と凄惨さを力説するが、肝腎の内容は投下から数年を経て生き延びた主人公が幽霊となった父と出会うというもので、舞台演劇という形式を割り引いても抑制された内容だった。敗戦から40余年を経て原爆への恐怖が希釈?されてきたのか制約ゆえなのか、切り口に凝る傾向が強まってきている。
2000年代に入って発表された作品群はまた様相が変わった。吉田喜重監督・脚本によるオリジナル『鏡の女たち』(2003)、井上の戯曲を黒木和雄監督が映画化した『父と暮せば』(2004)や『はだしのゲン』の実写ドラマ版(2007)などで、この時期はクレームを恐れて映画やテレビ全般から残虐描写が排除されるようにもなっており、それゆえか『はだしのゲン』は堅実にマイルドにまとまっていた。映画2本は巨匠の円熟した手腕が堪能できるが、あくまでローバジェットの枠組み。原爆のむごたらしさをメジャー映画で描いて成立した80年代とは隔世の感がある。監督の吉田はインタビューで述べる。
「原爆をテーマにした映画はコマーシャル・ベースでは難しいので、製作費を作ることが困難。それが出来ても上映はどうするか、興行的な問題もある」(「キネマ旬報」2003年4月下旬号)
『鏡の女たち』に関して石堂淑朗と荒井晴彦、絓秀実はこう評する。
「荒井 女の飢餓感みたいなものを描いてるわりには、台詞が青いなって思いましたね。でも、なんで原爆の問題を持ってきたのか、今頃。
絓 外国に持っていくなら日本には原爆しかないということでしょう。
石堂 吉田は自分を天才だと思ってるとこがあるから、『二十四時間の情事』(59)のアラン・レネじゃなく、この映画、俺のほうがいいんだと。
絓 大衆的ではない、大衆は知らんという映画ですよね。まあ、その意味では潔い。」(「映画芸術」No.402)
この鼎談からは時代の変容がさまざまに読み取れる。ひとつは、先述の通り21世紀になって「大衆は知らんという」マイナーな枠組みでないと原爆を扱いにくくなってきた点。この2本と同時期に最晩年の新藤兼人は巨費を投じて被害を描く大作映画「ヒロシマ」を構想したが、実現することはなかった。
いまひとつは、荒井が「なんで原爆の問題を持ってきたのか、今頃」と述べるように、原爆を扱うことがいささか時代遅れだと見なされるようになっていることである。幽霊との対話形式の『父と暮せば』も、吉田監督が「男たちが起こした戦争によってもたらされた悲劇に耐えて、子を産む女性の生命力を描こうとした」(「キネマ旬報」2003年4月下旬号)と注釈するように女性映画の装いの『鏡の女たち』も、言わばひねった趣向を採っていて80年代初期のように直線的に描いてはいない。どうも2000年代に入るころには、かつてのように戦争への怒りを叩きつけると型通りで曲がないという風潮が生まれたように思われる。新藤兼人が「ヒロシマ」を思い立ったのは、テレビのドキュメンタリー番組で爆風や熱度など「原爆とは、こういうすばらしい力を持った現代の英雄」といった調子で紹介されていたからだそうだが(『新藤兼人 原爆を撮る』〈新日本出版社〉)その「英雄」扱いしたドキュメンタリーの視座も時代の趨勢と無関係ではないだろう。
2000年を過ぎて往年の原爆映画を見直すと、その激情に満ちた描きように個人的には新鮮なものを感じるようになってきた。
2010年代に入るとオバマ前大統領の広島訪問や北朝鮮のミサイル問題など、久々に核の恐怖が意識に昇るようになったせいか揺り戻しがあり、原爆を描く作品が増えた。2016年には戦中戦後の広島・呉を舞台にしたアニメ映画『この世界の片隅に』が好評を博している。テレビでは2018年に『この世界の』と同じこうの史代の原作の実写ドラマ版『夕凪の街 桜の国2018』が放送された。ともに原爆を扱った作品で、特に後者は俳優の力演とイラストとにより象徴的に禍害を表現する工夫が凝らされている。