『軍旗はためく下に』(1972)の経緯はなかなかに意外なものだった。歳月を経て、深作欣二は新藤兼人脚本による『おもちゃ』(1999)を撮っている。
「深作:新藤さんがつくられた近代映画教会に、若い人たちが集まって、作品を撮る合間を無駄に過ごすのも意味がないんで、みんなでオリジナルのシナリオを書こうということで、新藤さん自身、どんどん書いていたんです。で、私が監督になってから、その運動の同人誌「シナリオ研究」をたまたま見せてもらって、そのなかの一冊に『おもちゃ』があったんです。ほかのシナリオも読みましたけれど、新藤さんのは群を抜いてますよね。新藤さんが映画化されたものは、みんなそれに載ってたわけです。
ただ『おもちゃ』はいつまでも映画化されない。あれはお金がかかるから近代映協には無理だったんでしょうけれど、面白いホンだなあと僕はずっと思っていた」(『映画監督 深作欣二』〈ワイズ出版〉)
シナリオが執筆されたのは1968年ごろだが、深作による映画化は約30年後。
「新藤さんは映画化の話に「どうぞどうぞ。ありがとうございます」と。あのころ新藤さんは老人問題を扱った『生きたい』(98)を撮ってらして、そればかりじゃなく、お金はいくらでも必要なプロダクションをやってられますからね。だからきわめて素直に「ありがとうございます。どうぞどうぞ」。そこらへんはしっかりしてらっしゃるから、脚本料も一流の脚本料を要求してこられるし(笑)。それからクレジットは原作・脚本ということにしてくれと。脚本をもとに原作小説をちゃっちゃっと書いちゃうんです」(『映画監督 深作欣二』)
新藤がシナリオに新たに修正し、深作は「いい直し方をしてくれたなと思いましたね」という。
一方で新藤の評価は「出来た映画はやっぱり活劇調なんだな。でんとした感じがなくて、色と金の悲喜劇をアクション風に、うまく収めるんですよ。歌を入れたりして、カメラを振ったりしている」とやはり厳しい。新藤のシナリオでは、主人公の女性が昔から知る同級の男性に会いに行く場面で「ひるんで、あとじさりをし」て声をかけられず見送ると書かれている。だが映画になると、シナリオの指定とは異なった演出が施されていた。
「(主人公が)なんか言わなければと思って行こうとするんだが、鉄道の踏切があっていけない。電車が通りすぎたとき、もう彼はいなかったというようにやっていた。
僕(シナリオ)は、そこが全然違ってね。広場があって、何も邪魔するものはないんだけど、その状況まで何キロも距離があるような感じがして、精神的なものが介在したからこそ、気後れして声をかけにくくて、行けなかったというようにやりたいわけ。シナリオはそういうふうに書いてある。それを電車が来たので、声をかけられないっていうふうにすると映画的には都合がいいけれども、それでは声をかけられなかったのは電車のせいになってしまうでしょう。そうじゃないんですよ。深作さんはうまいから、処理は巧みだけれども、それでは風俗性なんですよ」(『作劇術』〈岩波書店〉)
脚色に過ぎなかった『軍旗』とは異なり、オリジナル脚本の『おもちゃ』には不満も大きいようで「これは、暴力活劇を作った人の作品で、読みの浅さみたいなものを感じさせてしまう」と断じる。
「普通の暴力シーンのように撮っていくと京都は描けませんね。京都には、ちょっとみんな横目で見ているというようなところがあって、白けたような感じがある。路地を掃除するときでも、隣の角に落ちているチリには知らん顔をするようなところがあるんだ。それは長いこと虐げられてきた封建制の中から、「個人の生活は個人で守る以外にはない」というような気持ちからきているんです。僕は、その背景や環境を描き込んでほしかったと思いますね」(『作劇術』)
ただ筆者の感想としては、先述の会いに行くシーンでは電車が来てふたりを引き離してしまうのは、主人公が「ひるんで」いたことを画面で象徴しているように受け取った。そもそも電車の通過など数分程度のことのはずで、すぐ追いかければ間に合ったかもしれないのに主人公はただ茫然とするだけだった。つまり「精神的なものが介在したからこそ」電車に邪魔されてしまうのであって、新藤が非難しているほど深作演出が改悪だとは感じられなかったのだった。
ふたりのそれぞれの証言は、映画の内実だけでなく人間同士の齟齬という意味でも面白い。