私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

本多勝一と文藝春秋・殿岡昭郎『体験的本多勝一論 本多ルポルタージュ破産の証明』(1)

f:id:namerukarada:20210523001159j:plain
 かつて朝日新聞記者(当時)の本多勝一文藝春秋とが裁判で争った。本多は1964年に文春の主宰する菊池寛賞を受賞しており、当初の関係は良好であったが、月刊誌「諸君!」1981年5月号に本多批判が掲載されるなど両者の対立は深まっていく。やがて本多は文春側を提訴し、1998年まで実に17年に渡る紛争が勃発。

 筆者は本多にかぶれるというか面白がって読んでいた時期があり、もろに真に受けて文春は悪辣だなどとと思っていた。この争いをふと思い出し、改めて調べてみる気になったのだった。一連の経緯は殿岡昭郎『体験的本多勝一論 本多ルポルタージュ破産の証明』(日新報道)にまとめられている。

 筆者はまず本多の主張を先に目にしていた。1994年に永野茂門法相(当時)が南京大虐殺を「でっち上げだと思う」と発言して在任11日で辞任に追い込まれた件について、本多は論評した際に文春の件を引き合いに出していた。

 

毎日新聞」の第一報には書いた記者の署名がなかったが、仮りにM記者としよう。そして南京大虐殺を「でっち上げ」と語ったのは「永野法相」であって「M記者」ではない。M記者は、たんに永野法相の発言を報道しただけである。

 なぜこんな分かりきったことを述べたかというと、これほど「分かりきったこと」が分からぬ裁判官が日本にはいるからである。すなわち、もしこの事件について「M記者は南京大虐殺を「でっち上げ」と発言した。こんないいかげんな記者は筆を折るべきだ」と非難する評論をだれかが書いたとしたら、読者よ、どう思いますか。M記者はア然としてなすすべも知らぬことであろう。

 実は、この場合の「M記者」と同じ立場に立たされたのが私自身である。ベトナム関係の著作の中で、ある政府関係者の発言を「発表モノ」として書いたところ、それを私自身の発言にスリかえて株式会社文藝春秋の雑誌「諸君!」で「筆を折れ!」と発言した評論家がいる。発言自体は同じでも、その主体を改竄したらとんでもないことになる。にもかかわらず、この大改竄を合法とした裁判官が、東京地裁の丹宗朝子裁判長であり、同地裁の筧康生裁判長(当時)である。こんな無知で粗雑な人物が「裁判長」をつとめる日本の裁判所であれば、永野法相も「それにふさわしい最高責任者」として当然というべきなのかもしれない」(『貧困なる精神 K集』〈毎日新聞社〉)

 問題となったのは、殿岡昭郎・東京学芸大学助教授(当時)が「諸君!」に寄稿した「今こそ「ベトナムに平和を」」である。ベトナム戦争終結後に僧侶たちが集団自殺した事件があり、ティエン・ハオ師という愛国仏教会の幹部は、政策に対する抗議の自殺ではなく性的関係を清算するための無理心中であるとコメントしている。その見解に殿岡は疑問を呈し、自著内で紹介した本多を非難した。

 

何より問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。共産ベトナム報道の自由は当然に存在していない。本多記者も「新生ベトナムと取材の自由」という文章の中ではっきりと確認している。

「残念ながら、その方法(現在のベトナムにおける取材の方法)は戦時下の「北ベトナム」における方法と全く同じか、あるいはそれ以上にきびしい取材制限下での「取材」であった。」(『ベトナムはどうなっているのか?』二六七頁)

 従ってカントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧侶の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。

 もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。

 私は本多記者がかつて南ベトナムでグエン・バン・チュー政権に抗議して自殺した女子大生のニャト・チー・マイを悼んで書いた文章を思い出すのである。サイゴン大学文学部の学生であったチー・マイの焼身自殺はベスト・セラーとなった『戦場の村』の六七頁から七二頁にかけて記されている。そこには国を思い、民族を思い、自由と平和を祈って若い命を投げうった者に対する熱い同情の涙が流れている。」(「諸君!」1981年5月号)(つづく