『3番テーブルの客』(1996)のスペシャル版「3番テーブルのもう1人の客」は、台本の遅れによって舞台が初日を迎えられずにパニックに陥っているところから始まる。
俳優陣(桃井かおり、上杉祥三、永堀剛敏ら)は出来上がっている分の台本のみで舞台「3番テーブルの客」の稽古を始めるが、演出家(北見敏之)は机を叩いて「動きで出せよ」「大切なのは関係性だよ」などと怒鳴り散らす。完成している台本が少ないので、俳優は倍速で演じてみたり台詞をすべて「あいうえお」にしてみたり嵐の船内だということにしたり試行錯誤する。
演出の杉田は当時のインタビューで述懐する。
「僕の場合オンエアが(全24回の)後半のほうと決まってたんで、すると見る人はこの物語を1回は見ているだろうから、設定は大幅に変えようと。それと、後半の監督さんのスケジュールが厳しそうだったんで、前・後編の2回にして少し日にちを稼ごうかという事情があったりして、ああいう形(引用者註:1時間のスペシャル版)になったわけです」(「放送文化」1997年5月号)
「前からフェリーニの『オーケストラ・リハーサル』みたいなものをやりたかったということが一点あって、向こうは音楽ですけれどもそれを「演技」でやるときには、テレビの現場を舞台にするよりも芝居でやったほうが、演技論が自由なんです。例えば、セリフがあるのに全部「あいうえお」でやるとか、設定をどんどん変えていくとかは、テレビの収録ではあり得ないが芝居の稽古ではあり得る。基本的に脚本というものがまずあって、それは具体的設定というものを持っているわけですけれども、その設定をひっくり返すと(ドラマは)どうにでも変化するんだなと、見る人がわかっておもしろがってくれればいい」(同上)
実験的かもしれないけれども、変な言い方で台詞を口にしたり倍速で演技したりしていても不発で、見る側は苦痛。演出家はただ怒鳴りつづけ、怒声とお寒いギャグが延々つづき、拷問のような時間である。スタッフ役や俳優役には中嶋朋子、永堀剛敏といった『北の国から』シリーズの出演者も顔を見せているが、何の慰め?にもならない。
やがて作家は倒れてしまい、救急車で運ばれる。そのさまを見た主演者(桃井)は「ざまあみろって言いたいとこだけど」とつぶやく。筆者はこの展開にちょっとした衝撃を受けた。シナリオ作家のせいでみなが迷惑していることを強調するだけでなく倒れさせて「ざまあみろ」とは、その悪意はただごとではない。
先述の通り作中でシナリオ作家の名は「四谷」だけれども、月刊誌のコラムは杉田回を「三谷の脚本を舞台にかけようとしている脚本の稽古風景をドキュメンタリー風に描いた」(「CUT」1997年5月号)と評しており、ある意味で当然の勘違いである。三谷自身は、作中で自らが殺されかかったと感じたかもしれない。
杉田はインタビューでこうも述べる。
「でも今は、三谷さんの脚本を僕は少し置き換えすぎたかなと反省してるんです。久しぶりに重圧なしに、楽しんで作った結果なんですが、ちょっと本をぶつ切りにしすぎたかな、もう少し脚本の流れに忠実にやる手もあったか」(「放送文化」)
「重圧なしに、楽しんで作った結果」は倍速などの奇妙な脚色で、シナリオ作家を倒れさせるという展開であった。杉田の代表作である『北の国から』シリーズは倉本聰脚本を当然尊重していたし、三谷と同年代の野沢尚の脚本による映画『ラストソング』(1993)を撮った際の杉田は、奇矯なライティングなどは若干あったものの、かなり脚本に忠実に映像化した印象を受けた。それだけに…。
同じく『3番テーブル』に参加した岡村俊一は「元々三谷の脚本は、今度の企画用に、スキマを作って書いてあるんですよね。後に設定とかを変えやすいように。」「撮りやすいようにやりやすいように考えて書いてくれている」(「放送文化」)と述べているが、そのように演出家主体で自由に変えていいという条件に杉田は悪い意味で解き放たれたのか。「設定をどんどん変えていくとかは、テレビの収録ではあり得ない」と本人が語る通り、日ごろは脚本に厳しく拘束されていた恨みつらみが炸裂したのか。悪意に満ちた内容に、筆者は暗鬱な何かを感じている。