私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会 “ドラマで振り返る昭和”レポート (1)

f:id:namerukarada:20160928165433j:plain

 9月末、新宿にあるカルチャーセンターにて、脚本家・山田太一先生の講演が行われた。“ドラマで振り返る昭和” と銘打って、山田先生の代表作についての想い出が語られており、ファンは知っている話が多かったけれども、それほど大きくない部屋であったゆえか山田先生は話しやすそうで、元気な姿を見られてよかった。11月には新作『五年目のひとり』(2016)が放送予定なのだが、司会の人がちょっと触れるくらいで、例によって山田先生は何も言わなかった(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

 住友ビルのカルチャーセンター、開設のころに講師を引き受けたころがあって、部屋によっては椅子も置いてなくて(笑)。そのときからずっとつき合ってた人が何人もいたんです。若かったからぼくより年上の女の方もいて、何人かのグループで、その人たちにずっと何かというと「会いませんか」と言われて。いまはおふたりだけになってしまって、女の人は長生きだけど、ぼくより年上だとお元気だというわけにはいかなくて。きょうエレベーターに乗ったら、なつかしくなりました。

 一生懸命書いていたとき、連続(ドラマ)が多いですから、すると余裕がないのね、他の人のドラマを見ている…。当時は録画もままならない。いまみなさんがご存じの倉本聰さん、向田邦子さん、早坂暁さん(の作品)は気になるから見てましたですね。でも喋ろうとするとあまり見てなくて、結局自分の作品のことになってしまって。みなさん集まっていただいて、自分のこと喋るのも悪いような…。 

【戦時中の想い出】

 私は昭和9年生まれで、浅草の生まれで(生家は)盛り場でお金のない人も安そうって入るような店でした。そこの食堂で小さいときに育って、それが戦争になってきて。戦争中に浅草の人気者、あきれたぼういず坊屋三郎さんとか、小学生でしょっちゅう見てたわけではないですが、芸能の世界は印象に残って。益田喜頓さんとかぼくは好きで、いいなってそのころから思っておりました。でも戦争がどんどん厳しくなってきて、食べ物がなくなる少し前まで浅草にいて。昭和20年が終戦で、その3月に強制疎開でうちが取り壊しになって。空襲のために逃げ場をつくるからここからここまで立ち退き、有無を言わさずどっかへ引っ越せと。随分きついことでしたけど、うちの前に新聞紙敷いて、どんぶりとかラーメン、当時の支那そばを置いて安く売ったのを覚えています。

 引っ越した先は湯河原温泉。静かでいい温泉場でしたけど、温泉客は皆無で、兵隊さんで結核になった方とか病気の方が入られて。ぼくは最初の強制疎開の子どもで、全然環境の違うところで暮らす緊張というか、そういう経験がおありの方は多いでしょうけど。方言がきつかったですね。「そうずら」「そうだべ」って。そこへひとり転校してきて、普通ならいじめられるでしょうけど、国全体で大変だって宣伝してて(疎開者を)迎えた土地は大事にしようとお触れがあって、公にいじめられることはなかった。でも先生は無神経で、「読んでみろ」と。読むと「これが東京の正しい発声だ」と。そんなこと言ったらいじめられると思ったけど(笑)、だんだん自分も「そうずら」と。やがて東京に住めない人がどんどん疎開してきて、ぼくと同じくらいの小学生も疎開してきて、そうなってからはぼくがひとりでいじめられなくても済むから。いろんな人がいておびえながら、そこで暮らしてましたですね。

 それから、食べ物がなかった。疎開者に売るなっていう農家の人たちのひそかな話し合いがあったかどうか判りませんけど、お米を買いに行くと「しっしっ」って。みんなが物々交換をしに農家に行くから、浅草の人が持ってるものなんかダメで、飢えましたね。食べ物がない。遠くへ行かなければ、疎開者がいないところでないと売ってくれない。燃料もなかったですね。山は入会権があって、下に落ちた枝は持って行っていいと。燃料も自分で調達しなきゃいけない。

 随分後のことですけど『ニーチェの馬』(2011)っていう映画がありまして、ニーチェの晩年に、馬丁が馬を叩いていて、そこにニーチェがよろよろ行って馬を抱きしめて崩れ落ちたっていう、ほんとかどうか判りませんけど。ニーチェは神は死んだ、神さまはいないって言った。神が死んだ後の現代は悲惨で、そういう悲惨なものを抱きしめたっていう、そういう映画がありました。その中で貧困なお父さんと娘が口を利かない。ふたりで住んでて、毎日風が吹いてる。つまり現代ってこうなんだ、現代の厳しさなんだと。食べるものがなくてジャガイモを。私のころはサツマイモでしたけど、朝と晩と2度くらいかな、ジャガイモを1個ずつ親子で食べる。口も利かずブスッとして、そんときに皮を剝く。それで半分くらい食べて置いちゃう。娘がお父さんの食いかすと自分の食いかすを捨てちゃう。この映画、それだけで許せない(笑)。飢えてたら皮を剝くわけがない。半分食べて、飽きたみたいに置いて、それで極限の生活を表現してるなんて。それだけで憤慨して、ひどい映画だと(一同笑)。そんなふうに豊かになってきましたね。

 

【映画界からテレビへ (1)】

 大学出て(松竹)撮影所に入って、就職しなきゃ生きていけませんから。入れてくれたんですけど、そのころもいっつもお腹がすいていたみたいな。食堂があって、残業すると食券を配ってくれて、だんだんたまる。それが嬉しくて。山田洋次さんは(同じ松竹の)少し上ですから、やはりそれで潤ったと思います。(つづく

 

【関連記事】山田太一講演会 “いま生きていること”レポート (1)