私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会 “ドラマで振り返る昭和”レポート (2)

【映画界からテレビへ (2)】

 (木下恵介監督の)『楢山節考』(1958)を撮影していて、研修で1週間だけついたんですね。その後が(木下監督の)『この天の虹』(1958)。北九州の小倉にある八幡製鉄所の躍進っていうのかな、それを描く。働いている人たちを。

 木下さんですから大作で、随分長く(九州に)いて、そのころの八幡の輝いてる感じはすごかったですね。製鉄所の人のためのスーパーもあって。(スタッフを)1階の大広間に呼んでくださって、ひとりひとりのお膳を和服の方が運んで置いてくれて、夢のようでしたね。煤煙が日本の希望であるって映画だったわけです。ほんとは灰だらけですけど、それは希望の虹だと思っていて、いまの映画と全然違うでしょ。そのころは誰も疑わなくて、希望だととっていたんですね。

 私は30歳まで撮影所にいたんですけど、いろんな事情でテレビの仕事をするようになって。そのころのTBSは輝くような…。松竹大船はきたない。桜が咲く撮影所は素敵なところと思っていたら、赤坂のTBSは中に入ると螺旋階段があって、そういうのも珍しくってね、はずかしいくらい。反感も持ったり。撮影所はきたなかったから、人生を描くにはきたないものと切れていてはダメという思い込みがあって。TBSはスーツばかり、土ってものがない。スタジオにもない。こんな人たちが貧乏人の人情話を撮ってるなんて許せない。エリートじゃないか(笑)。セットだけわびしそうにして、街灯があって、おでん屋で人情話をするなんて貧乏人をもてあそんでる(一同笑)。ぼくは偏見だらけでしたね。

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【初期の自作】

 自分の作品を書だんだん書くようになってきて、『3人家族』(1968)っていうもの。30分もので何話もあって。自分のうちに電話を引く(エピソード)。次男坊がお兄さんやお父さんの会社にかけて、「これうちからかけた!」って興奮して。公団住宅で電話は抽選だったから。それは特殊ではなくて、見てくださる方はそうだと思ってくださってたけど、いまの通信機器と比べれば冗談みたいですね。ステレオでスピーカーをふたつ置いて(レコードの?)サンプルみたいなものが無料で配られて、次男が聴いて(左右の)音が違うって興奮したり。そんな哀しいというか貧しい日本が、そんなに昔でなくあったんですね。他の作品で、ミヤコ蝶々さんが引き戸の「鍵閉めたか?」って言う。靴どろぼうがいるって。あのころはみんな大変でしたから、靴がある人は、ない人を警戒してた。いまはそんなのなくて、いまとはものすごくいろんなことが違ってました。

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 1971年かな、あるときサイパンに行くことがあって。(当時は)日本人が行くことはできなくて、グアムでアメリカ軍に許可もらって、アメリカ軍の飛行機に便乗していく。木下恵介さんが、サイパン見たいと。それでお前もと、お供でついていったんですけど。

 ホテルが一つ、ペンションがひとつ。それだけで、飛行場も淋しいところで、でもガイドみたいな人が来てくれました、日本語で。かなりの日本人がいましたから、ホテルはひとつでわりあい人が集まってきて、夜にそこのバーから日本語の唄がいっぱい聞こえるんですよ。そのころの流行歌。ぼくは日本人だと思って、戦争で迷惑かけたところへ来てこんな日本の唄をうたってと思って、文句言いに行ったら、向こうの人が酔っぱらって日本の唄をうたってて、ああ自分はバカだなと思いましたけど。

 ガイドの人が、何ドルか出せば他の人が行かないところに連れていくと。木下さんは出すよと言って、それでジープに乗って洞窟へ行って、特別だよと恩に着せられて(笑)、入って行ったら骨が散乱していて。日本軍のかぶとや遺骨が。見物するのも悪いっていうか。ぼくの世代の10歳上くらいで、ここで死んだ人もいたわけで。木下さんは「(端に)寄せよう」と。拾って埋めるまではできないけど、いまの散乱ではなく。自分とそれほど違う世代でない人がいっぱい死んでると思うと、涙が出てきたんですよ。

 それから少し経って、NHKの仕事はしてなかったんですけど、朝のドラマを書かないかと。あのころ(放送が)1年だったんですよ。戦争で夫が戦死した女の人の半生を書こう(『藍より青く』〈1972〉)。それで最後にサイパンを使いたい。結婚して、夫は太平洋上で戦死してしまって、男の子を育てて。中年になって、息子とサイパンへ、お父さんは南の海で死んだから行こうって。それで骨が散乱して、拾うシーンを書いたんです。そのころ、1973年は、南の島のことは話題にあまりならなくなって、マスコミも取り上げなかった。でもこのシーンをキーにして、南のことを覚えててくれというドラマにしたんですね。骨を拾いながら泣くって書いたら「でもお父さんじゃないかもしれないから泣かない」ってディレクターに言われて。あ、ちょっと年下なら違うんだ。でもお父さんを連想したら泣くよって、強引に泣いてもらったんですけど。ところが放送される前に、グアムで生き延びてた人が現れたんですよ。日本のマスコミは忘れるどころか、南の島の話ばっかり。がっかりしちゃったことを覚えてますね。ずっと穴にいたならもうちょっといてよ(一同笑)。

 社会はテレビと連動するところがありますでしょう。ずれたり、ぴたりとすることもありますけど。 

藍より青く〈上〉戦後ニッポンを読む

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ホームドラマについて (1)】

 そのころですけど、家族のドラマがすごくほのぼのとして、それ嘘だろうっていう。上下があって、お母さんが中心なんだけど、何かの折りにはお父さんの力が物を言う。きつい解決をするときは、おじいさんやおばあさんの知恵が救う。救うって大げさですけど、そういうのがわりあいヒットしてたんですね。どうしてこうなっちゃうんだろう。○○さんみたいな人(俳優)をキャスティングすると、その人が最後の知恵みたいになってたんでしょうけど、実態は一戸建て志向の小さい単位の家族で。あこがれだったのが一戸建ての家。一戸建てに住んでる両親と子どもはどういうふうに暮らしてるか、書こうと思いまして。

 どうすれば普通の家族の日常を書いていって、内面でいろいろあるか描けるか。「暮しの手帖」のエッセイを女房が見つけまして、画家の方だったと思うけど、脳腫瘍になってだんだんあらぬことを言い出す。自分の内面を喋り出す。(つづく

月日の残像(新潮文庫)

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