【マンガの表現について】
水野「私たちの世代は映画と同じような表現に力を入れ始めた世代で、前の世代と圧倒的に違うところです。ページ数をもらえるようになると、余韻のようなものを映画のように描きたかった。
コマ割りで変化をつけるのは、石森(石ノ森章太郎)さんの開拓したところです。大胆なコマ割り。ヒロインが塔から身を投げる場面ではスカーフがひらひらして、暗示する。縦にも横にも見えて、石森さんらしいですね。
(別のコマを指して)ふくろうの色が薄くなるのは時間の経過を表しています。こういう高等表現をした人はいないですね。
(森のコマを指して)スクリーントーンをフルに使って大胆に縦横にコマをとる。このころはスクリーントーンが使われ始めていて、初めて使ったのが永田竹丸さん。イラストでなくマンガに使うのがおもしろいと」
ヤマダ「おそるおそる使われ始めたころで、こんなにガーッと使うのは珍しいですね」
水野「コマ割りの表現、描写を広げていったのが私たちの世代で、それが原型でいまに通じています。定着しているのは、この時代にみんながつくり上げたものです」
ヤマダ「トキワ荘では、ほとんどの方が少女マンガを主に描いてましたね」
水野「少年物は絵物語が全盛で、文章とイラストのあるものの人気があって、マンガは主流ではなくて新人が入る余地はない。少女雑誌は発展途上で、男性が描くことが多くて。藤子(藤子不二雄)さんたちが描くのは少年マンガでしたけど、大抵は少女マンガ。感情をしっとり描いて、描写力が培われて少年マンガに広がっていったんです。少女マンガのほうがお姉さん。下に見られますが基礎になっています」
ヤマダ「松本零士さんとか、少女マンガを通じてアクションやかわいい女の子の描き方を学んでヒット作家になっていったと思いますね」
水野「私も少女マンガにものすごく勉強させてもらいました。みんなお互いに勉強家でしたね」
【その他の発言】
水野「私の『銀の花びら』(講談社)は手塚(手塚治虫)先生とのバトンタッチと丸山(丸山昭)さんはおっしゃっていますが、当時の連載は1月号から12月号までというのが慣習でした。手塚先生は『火の鳥』を「少女クラブ」1957年12月号まで連載されて、その次のページから『銀の花びら』(の初回)で、普通は1月号からなのに完全なバトンタッチだったと何十年も後に聞かされて。うわあ、そらおそろしい。
丸山さんの指導はほんとに丁寧でしたね。女の子というのは珍しかったんです」
ヤマダ「赤塚さんは、この1958年に『ナマちゃん』の連載をされて、その前にも毎月すごく描いてますね。『ぼくらマンガ家』(1981)では(『ナマちゃん』のスタート前は)あまり描いてないような感じでしたけど、連載にならなくて短いのをずっと描いてると」
水野「みんなお金なかったですよ。石森さんは量産できるからお金持ちでしたけど(笑)」
ヤマダ「私が好きなのは、3人でちゃぶ台にすわって描いていると赤塚さんは水野先生(の手元)の左側に電気スタンドを置いてくれたというエピソード。自分の(原稿)が陰になっても、水野先生が描きやすいようにと」
水野「優しい方でしたね」
ヤマダ「あのイケメンがやってくれるというのはうらやましい(笑)」
水野「赤塚さんはすごく気のつく方で、石森さんの女房役。片づけもこまめにする方です」
ヤマダ「『ぼくらマンガ家』では水野先生がいつのまにかいましたね」
水野「女の子でしたから、あんまり詮索しない。みんなあんまり知らないんです(笑)。
『ぼくらマンガ家』では戸を閉めてましたけど、ほんとは開けっ放しで誰でも出入り自由。石森さんがテレビ持ってて、留守でも時間が来たら勝手に入ってテレビ見てたり。帰ってきて「見せてもらってるよ」「おう」って。
東京に戻ってからは通い組。だんだん(トキワ荘に住んでいる)マンガ家さんも少なくなって。週刊誌時代でこちらも忙しくなってきて、行っても石森さんも忙しくて。部屋に行っても石森さんも忙しくて、入ってテレビ見るのも忙しい雰囲気で。だんだん間遠になって」
水野先生が定規を使わずフリーハンドで描く映像も、最後に紹介された。