私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

鈴木伸一 トークショー レポート・『アニメと漫画と楽しい仲間』(2)

スタジオ・ゼロの時代 (1)】

 1963年、鈴木氏はトキワ荘の仲間(藤子・F・不二雄藤子不二雄A石ノ森章太郎つのだじろう赤塚不二夫)とスタジオ・ゼロを設立して独立。当時30歳だった。

 

鈴木「手塚先生が『鉄腕アトム』(1963)のアニメを始めてすごい人気でね。ぼくはこういうSFの時代になるんだなと思ったの。ドラマもしっかりしてるしね。おとぎプロは燃え尽きたね(笑)。

 『アトム』を見てみんなじりじりしたわけだよ。藤子さんたちも石森もね、自分たちでもつくってみたい。ぼくは横山先生にみんなでつくりたいから、申しわけないけどおとぎプロを辞めさせてほしいって言った。そしたら横山先生は「いいけど、きみはぼくの弟子だからね」って。変なことするなよと。弟子だって初めて知ったんだけど、横山先生は弟子を取らないって公言している方だったから。逆に嬉しくなってね、もうちょっといてもいいかな(一同笑)。

 スタジオ・ゼロをつくったけど、企画も全然ないしね。どうやっていいか判らない。そのうち東宝からゴジラの使わなかったフィルムで何かできないかねって言ってきた。一応「怪獣島」って企画を出して、宇宙から何かが落っこって怪獣が出てくるって。編集してできるかと思ったけど没になりました」

鈴木「その後で『鉄腕アトム』の外注の話が来たの。『アトム』は忙しくて夏休みも取れない。1本を外注でつくれば1週間空くと思ったんじゃないの」

 

 そのエピソードが第34話 「ミドロが沼の巻」。みなの絵の個性が強すぎて、完成作品を見た手塚治虫は頭を抱えたという。しかし『パーマン』(1967)や『佐武と市捕物控』(1968)などメンバーのマンガ作品をテレビ化して、会社は軌道に乗った。

 

鈴木「(窓に株式会社と書いてあるが)有限会社だった。株式会社にしようしようと言ってたら、勢い余って窓に書いちゃったんだ。そのほうがかっこいいからね(一同笑)。

 人が増えて(会社のあった)市川ビルは4階建てなんだけど5階もつくっちゃった。そこに試写室とか。1か月くらい黙ってたら、消防庁が来た(一同笑)。それで壊すことに。

 みんな徹夜つづきで誰かがいて不夜城。前が交番なんですよ。いつも電気ついてるから交番の人が怪しんで調べに来た。赤塚氏が「マンガ描いてるんですよ」「締め切りに追われてるから徹夜になっちゃう」って言ったら、お巡りさんもマンガのファンになっちゃって(笑)。そういうことも面白かったね。

 4階建ては当時はいちばん高かった。火事でウーウーと来ると、みんなで屋上に行くとどこが燃えてるかすぐ判る。すぐ近くで「おー燃えてる燃えてる」なんて。それで「みんなで集まったから記念写真を撮ろうか」(一同笑)。

 藤子・Fさんの横が赤塚プロで、もうひとつ向こうが藤子Aさん。それと応接室とスタジオゼロ。赤塚氏は遊び好きで仕事しながら豆鉄砲とか(笑)。やり始めたら止まらない。流れ弾が藤本氏のところに飛んでって、藤子・F氏は「やめろ!」。あの人は怒ったら怖いよ(一同笑)。普段怒らない人は怖いんですよ、真面目だから。赤塚氏は「やめよう」と言って、その後で「うちへ行ってやろう」(一同笑)。もちろん仕事を放り出して」

 藤子、赤塚、石ノ森などメンバーの原作によるアニメの他にも多彩な作品を制作。「おたのしみアニメ劇場」は『祭りだ!ワッショイ!』(1970)の中のコーナーで、当時のヒット曲とアニメを組み合わせている。

 

鈴木「(司会は)大橋巨泉さんだっけ?(司会は前田武彦やピーター)  ちゃんとした歌謡曲を流して、めちゃくちゃにする(一同笑)。これはね、絵コンテを藤子さんが描いたんだよ」

 

 鈴木氏はゼロ制作のCMも演出した。

 

鈴木「(CMでは)技術的なことは結構何でもやったよ。1回成功すると何でもやれるって自信は何となく出てくるんだよね。

 ピコレットは藤沢製薬だっけ? キャラクターをちょっと変えちゃったかもしれないね。こう見るとディズニーと違う感じがする。

 カルピスは自由に。やっててすごく愉しいんだよ。絵コンテを描いて、動画はスタッフが。撮影もスタジオゼロでできた。大きい撮影台があったしね。このころは(30代で)充実してエネルギーもあった」

 

 やがてマンガ家たちは忙しくなり、会社への注文も減っていって解散することに。

 

鈴木「経営は下手だったね。上手くいかなくなってくる。コマーシャルの仕事もしょっちゅう来るわけじゃないから。(経営が苦手なのは)師匠も(笑)」(つづく