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鼎談 藤子不二雄A × 大山のぶ代 × 石ノ森章太郎「追悼 藤子・F・不二雄 ドラえもんは君の愛だった」(1996)(1)

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 以下に引用するのは『ドラえもん』(小学館)などで知られる藤子・F・不二雄藤本弘)先生が1996年に逝去された際に月刊誌「婦人公論」にて行われた鼎談で藤子不二雄A大山のぶ代石ノ森章太郎の三氏が参加しておられる(字数の関係上全文ではない)。

 石ノ森章太郎先生は、藤子不二雄の両先生とは若いころからの友人で、この対談のしばらく後の1998年1月に60歳で逝去された。「去年、最後に会ったときにはお互い体調が悪かった」との発言が痛々しい。

 ちなみに藤子不二雄の両先生と石ノ森先生、赤塚不二夫先生らは若き日に “新漫画党” というグループを組織していた。この記事には、何の説明もなく新漫画党と出てくるので「婦人公論」の読者は判るのかと思ってしまうのだが…。

大山 私は、藤本弘先生(藤子・F・不二雄氏)の訃報を聞いたときには、もう途方に暮れてしまいました。でも、ずっとお加減が悪くて、入退院を繰り返されてましたでしょう。

 

孫子藤子不二雄A) この十年間、病気を騙し騙しやってきたようなところがありますね。

 

大山 だから、亡くなったことをうかがってショックだった反面、ああ、やっぱりご無理だったんだなとも思いました。どこか心の底で覚悟みたいなものはあったというか、時間が経つうちに、「よくぞ頑張られた」と思うようになりました。

 

石ノ森 去年、最後に会ったときにはお互い体調が悪かったもんだから、顔を見合わせた途端に「どう?」「ぼちぼち」と挨拶して「とにかく、あまり無理しないで頑張ろうや」と別れたんですよ。亡くなったと聞いた途端に「まいったなぁ」と思ったけれど、いまは「お疲れさん、まあこれからは少しのんびりしてや」と思っています。

 (中略) 

石ノ森 とにかく彼は精神が若かったね。だからこそ、昔と変わらないテーマで漫画を描き続けられたんでしょう。彼の目は、好奇心旺盛で若々しいでしょ。遠目に見ると、トキワ荘手塚治虫氏はじめ、若き新漫画党の住んでいたアパート)で初めて会った頃とそれほど違わないから不思議だった。僕は太ったり白髪になったりして、随分変わったけれど、藤本氏はあまり変わらない。それだけに亡くなると、アビちゃんが言ったように不思議な気がするんですよね。

 

大山 いま石ノ森先生が「藤本氏」とおっしゃいましたけど、トキワ荘のお仲間はみなさん「氏」をつけてお呼びになるんですか。

 

石ノ森 最初は手塚先生から始まっているんですよ。僕らを呼ばれるときに、石ノ森氏、安孫子氏という感じでね。まあ、だんだんアビちゃんとかになってきたけど(笑)。でも、そういえば「藤本氏」だけはそのままだったな。

  (中略) 

石ノ森 ところで昔、藤本氏は人見知りしたでしょ。

 

孫子 出てきたばかりの頃は、編集者に会うのも嫌がって、僕が一人で会ったりしたんですよ。だから、最初の頃は藤子不二雄というと僕一人のことだと思っていた編集が多かった。

 

大山 私も、初めてお会いしたのは十九年前なんですが。

 

孫子 もう十九年になりますか。

 

大山 実は私も最初、安孫子先生が藤子不二雄さんだと思っちゃったんです。それに、藤本先生のほうが背がお高いのに、安孫子先生のほうが背がお高いと思えたの。みんなそう思ったんですよ。

 

石ノ森 アビちゃんは顔が大きかったんだよ(笑)。

 

大山 たぶん、雰囲気なんでしょうね。藤本先生は大勢で食事するようなときも、控えめになさっているような方でした。だから、藤本先生が何千人という子どもたちを前にして、『ドラえもん』の劇場挨拶をなさったときは、意外だったんです。

 

孫子 『ドラえもん』を描いたことによって、大きな自信を持ったんですよ。

 

石ノ森 それでも、僕ら仲間とはよく話してたのにね。彼の話は訛りがあって朴訥だけど、妙に説得力があるんですよ。

 

孫子 僕と藤本くんで富山出身同士、つい富山弁で喋っていると手塚先生が真似したんですよ。それを藤本くんが嫌がってね。「もう、嫌だなぁ。なるたけ手塚先生の前では二人で喋らないようにしようよ」って。

 

石ノ森 それが引っ込み思案の原因じゃないの(笑)。つづく

以上、「婦人公論」1996年12月号より引用。

 

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