若きマンガ家たちのつどったトキワ荘の紅一点・水野英子。いまは少女マンガの巨匠だが、水野と石ノ森章太郎、赤塚不二夫という三大巨匠が合作した時期があった。
「ヒロインを水野英子が描き、ヒーローをボクが描き、その他大勢を赤塚が描き、背景はみんなで描き…、奇妙な原稿が出来上がった。歌劇「アイーダ」を下敷きにした“星はかなしく” 、史劇「サムソンとデリラ」 “赤い火と黒髪” (原文ママ)。二冊の別刷フロク。そして、オリジナルの探偵モノ「くらやみ天使」。これは連載である。
「名前はなんとしよう?」
「そうね…。三人の頭文字をとってM・I・A。その前にUをつけ、ドイツ語読みで、U・MIA(ウー・マイア)ってのはどう?」と、丸サン。
いい加減なものである」(石森章太郎『章説 トキワ荘の青春』〈中公文庫〉)
7月に川崎市民ミュージアムにて水野英子氏のトークショーが行われた。かつて「少女クラブ」編集部に在籍し、合作の発案者である丸山昭氏も来られる予定だったが体調不良で叶わず。代役としてマンガ研究者のヤマダトモコ氏が急遽インタビューアーを務めた。
トークの前にトキワ荘時代を回顧した映画『トキワ荘の青春』(1996)とテレビアニメ『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』(1981)が上映された。作中には水野先生も登場している(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
水野「ずいぶん長いおつき合いで、9年前に展覧会をしていただきましてお世話になって」
ヤマダ「ここ(ホール)でなくて、この外で対談しましたね。私は2010年にここ(川崎市民ミュージアム)を出て、今回は古巣に戻って水野先生とお話しできて、感無量ですね」
【『ぼくらマンガ家』『トキワ荘の青春』】
水野「アニメ(『ぼくらマンガ家』)はすごく純情というか、真っ当に描いてますね」
ヤマダ「トキワ荘は1952年10月にできて、1953年に手塚治虫さんが入られて。いちばん最後に石森さんが出られたのが1963年。(マンガ家たちの集まった)トキワ荘の時代というのは1953〜63年の10年間なんですね。藤子不二雄さんは1954年です」
水野「私は1958年。みなさんが入ってから2〜3年後です。寺田(寺田ヒロオ)さんは前年に結婚していらしたけど、毎日お顔を拝見しました。住んでいらっしゃるのかと思ったら、みんなが心配で毎日見に来てると」
ヤマダ「『トキワ荘の青春』では(寺田氏がトキワ荘を出るラストは)ひっそりと淋しそうに描かれてます。でもご結婚で出られたんですね。その後もしょっちゅう来ていたと」
水野「映画やアニメ、マンガにすると面白くするために誇張したり。これがほんとだと思わないでください。私が勇ましかったとか」
ヤマダ「かわいい子が来るかと思ったら、すごく勇ましい子だったと。『トキワ荘の青春』は淋しいつくりでしたけど、水野先生が出てくるとパッと明るくなる感じで。出るときに「またなっ」と投げキッスしてたのは?」
【トキワ荘と水野氏】
水野「(入ったのは)1958年3月で、U・マイアの仕事があって。3か月で帰るよって祖母と約束してたけど10月までいて。「少女クラブ」編集部に祖母から手紙が来て、音沙汰ないけど生きてるかって。当時は電話がなくて(トキワ荘近くの)落合電話局からかけてましたが、連絡するのを忘れてたんですね。(手紙の件に関して)丸山さんの本に書いてあるのは嘘で、丸山さんは手紙を持ってきて「返事してあげてください」って。7か月経ってましたから。
石森さんが書いた本に私がいつのまにか帰ったってあるけど、嘘です。挨拶しましたけど、でも理由は言わなかった。階段の下まで見送りに来てくださって。でもいつのまにかいなかったって書いてて、信用しないでください。面白く書くためにいろんなテクニック使いますからね(笑)」
ヤマダ「当時は華の18歳ですね」
水野「にきび華やかな18歳(笑)。
東京を離れるのは淋しくて。東京の風景が列車で遠ざかっていくのが淋しい。自分の連載を持ってましたし、それより何よりまたトキワ荘の人たちに会いたかった。
(2度目の)上京は翌(1959)年の3月。近くに下宿を借りて、バスに乗って行ける。講談社とトキワ荘とで三角地帯でした」
【U・マイアの想い出 (1)】
ヤマダ「赤塚さん、石森さんは20歳くらいで若くていちばん元気で吸収できるころですね。そんな若い人たちが3人で合作をなさる」
水野「私はU・マイアの合作のためにトキワ荘に入りました。
(赤塚氏の顔が映されて)ハンサムでしょ。後年のおじさまとは別人(一同笑)。笑顔がステキですよね。久しぶりにあのころの赤塚さんを見ました。
U・マイアというのは、丸山さんが3人をいっしょにして合作させたらおもしろくなると。石森さんと赤塚さんは、いずみあすかというペンネームで合作してて、そこに私を加えようということで話がまとまりました」(つづく)