【スタジオ・ゼロの時代 (2)】
「おたのしみアニメ劇場」のころに、鈴木氏は自主制作のアニメ「点」(1971)も制作。
鈴木「オタワだっけ。カナダのほうでフェスティバルが新しく始まって、日本アニメーション協会(当時は日本アニメーション映画協会)で作品を出そうかという話になったんだね。
どんなものがいいかなと思って、シンプルに動かしてみようというものに。実験映画みたいなものだから、実写とアニメが絡んでいくというのをやってみたいと思ったわけ。(構想が事前に)あることも、つくりながら考えることも両方ありましたね。落ちは考えとかないとダメでしょうね。落ちはあったほうが作品としてまとまる。(「点」はラストが首吊りで)風刺的なものをつくろうというのがあったんですね。若いときはそういうことをやりたがるんだよ(笑)」
つづく自主制作は「The Bubble」(1980)。
鈴木「アニメ(のつくり方)は成り行きだよ(一同笑)。ぼくはそのほうが面白いと思う。ガラスを見てるとゆらゆらして水みたいだなと思ったのよ。つくるときに思い出したり」
【その他の発言】
日本文藝家協会編『ベスト・エッセイ2023』(光村図書)には鈴木氏の「藤子不二雄Aさんを悼む」が収録された。「毎日新聞」に寄稿した藤子A氏の追悼文である。
鈴木「作家の集まりがあって、その委員みたいな人が自分の読んだものの中から選んだ。沢木耕太郎さんといっしょに載ってるのがすごく嬉しいわけ(笑)。この人の『深夜特急』(新潮文庫)がすごく面白くてね。みなさんも是非お読みになってくださいよ。好きな人といっしょに載って、もう死んでもいいと思ってる(一同笑)」
鈴木氏は先述の通り、授賞式の火事を撮るなど若き日からビデオ魔。宴会などでは飲み食いしないで撮った映像が残っているという。
鈴木「テレビなんかだと何人かで撮って編集する。ひとりで撮るといろんな制約があるけど、ただやっぱり(撮るのは)大事だと思ってる。その瞬間が大事だと」
1968年の映像「遊び呆けた七人」が上映された。台湾や香港、マカオの旅で機内の映像もある。
鈴木「この当時は飛行機が珍しかったよね。ぼく、飛行機大好きだからさ。戦争中でも戦闘機とか。
ぼくユネスコの仕事したことがあって、タイとかマレーシアとかのプロダクションとつくったんですよ。ユネスコの人が通訳してくれて。帰りに飛行機が飛んでいるときに雷があって、光が空を走るんだね。あれを撮っておきたかったけど、夜中で周りは寝てるんですよ。目に焼きついてるね」
古川タク氏も登壇。初期作品の制作過程で鈴木氏と出会ったという。
古川「後輩のインディペンデント系の作品にもスタジオ・ゼロは協力してくれた。そんなところは当時めったになかったからね。1972年かな。長いおつき合いで、あちこち外国も含めて旅行して、失敗談もあるんですけど。ほんとに変わらない。こんなに変わらない人はいないよ」
鈴木「もうすぐ死ぬよ」
古川「それを言ってもう何年(一同笑)。健脚で素晴らしい」
鈴木「坂のあるところを歩いてるからね」
古川「みんなで飲んで夜の11時過ぎに帰ると、鈴木さんは駅までちゃんと夜の坂を。鍛えていてすごいですね」
鈴木「足だけね。トキワ荘の人もみんな死んじゃって呼んでると思うよ。安孫子(藤子A)氏と約束して、いっしょに飯食おうと。いつ食べようか訊こうとしたら電話が切れてて、それが最後の最後。だからね、向こうで待ってるのかな。いつかは死ぬからね。まあいいわ(笑)。
作品が残ってれば思い出すこともできる。だからつくっておかなきゃダメだね。みなさんもつくってほしいんですよ。年寄りもつくってるから自分もつくろうじゃないかと。
日本はマンガとアニメの国ですよ。たどっていけば手塚(手塚治虫)さんとか横山隆一先生にたどり着くんだろうけどね。ぼくは手塚先生は、世界の偉人だと思ってるよ。世界のマンガを変えた。いまの若い人はどの程度知ってるのかな。大学で手塚先生の話をしたんだけど、よく判ってないような。ちょっとがっかりした。書いてもらったアンケートを読んだら「年寄りがなんか話してる」みたいなので、真剣に聞いてないような。せめて『火の鳥』(角川文庫)ぐらい読んでくださいって言ったんだけど(笑)。あんなにすごい人はいない。横山先生も偉いけど、子どもっぽいところがあって、そこがいいところで大好き」
古川「横山先生はそうだよね。どこに行っても、ぼくたちふたりはこの話。海外で日本のマンガについて話してもこうで「もう少し最近のことを話してください」と(笑)。
さっきのビデオと言えば、ぼくらは上海で手塚先生に会ったのが最後だったんですけど、そのときも」
鈴木「ぼくが撮った(笑)」